浅羽通明『大学で何を学ぶか』

「毎日をダラダラと無為に過ごすのが最もダメで、積極的に行動し、貴重な体験をいっぱいしなさい」「素晴らしい友人や恩師と出会いなさい」「色々と勉強しなさい」といった旧来の同種の本とは全く違う。希望を持って大学に入ってくる学生や大学では勉強するもんだと張り切っている学生の希望を打ち砕く本である。浅羽は言う。大学で何一つ勉強せず、ひたすら腐りきって単位だけを取った奴だって、社会に出て一人前に働いているじゃないか、と。むう、確かに。そういった構造自体に問題があるかもしれないし、一人前の捉え方も様々にあるが、それでも何とか一人前に働いているのは確かだ。

大学を何かに喩えるならば、それは「お伊勢参り」であり、江戸時代における一生に一度のお伊勢参りは、その性質が現在の大学にとてもよく似ているんだそうだ。お伊勢参りの道中には巨大な売春街があり、お伊勢参りの本質は参拝自体にあるのではなくて、世界に名だたる娯楽をお伊勢参りで楽しむことなんだそうだ。つまり大学(お伊勢参り)は大人になるための一種の通過儀礼であり、あまりにも広大なモラトリアムなんだ、と。

大学の本質は勉強ではないし、大学での勉強自体に価値はないんだから、本当に面白い授業以外は単位を取ることに専念し、大学はツールのように活用し、そして社会に出るとき(モラトリアムを終えて大人になるとき)は、大学からも教養からも卒業してしまうんだ、と。大学とはそんな非日常空間だと浅羽は言うのである。「なるほど、そうだったのか!」と素直に思えるはずもない。一般教養がクソでも、3回生になれば、ゼミが始まれば……と期待し、そしてことごとく後悔した。そのことは素直に割り切れるものでもないが、本書を読んで、なぜ俺が大学に満足できなかったのかがわかったし、大学の抱える問題の根深さも前よりもわかるようになった。教養は完全にシステムとして大学に回収されてしまったのだ。

では、その教養を大学から奪還する方法はあるのか。浅羽は言う。「本山に上がらず、専業のインテリとはならない生き方を引き受け、専業でないハンディを逆手にとって、いつか形骸化した専業者を越える。おそらく、それは可能であろう」と。つまり、大学院に行ったり大学に残って研究者として象牙の塔にこもるようなことはせず、一般人として生きながら修練を積めということだ。どのように専業でないハンディを逆手にとって奪還すれば良いかという言及は不十分だが、それは古い本の『ニセ学生マニュアル』や新刊の『野望としての教養』あたりで書いているんだろう。ただ、せっかく高い金を払ったのに大学を見限るのもねえ。在野の立場で大学から教養を「奪還」しようとは考えず、大学に多くを求めることや、あえてその大学院へ上がり教養を返してもらおうと考えることは、至極まっとうな考えだと思うんだけど。

大学に問題があるなら個人が行動か環境を変えるアクションをとるべきなんだろうな。最近やっと苦さと共に「そうするべきだった」と思うようになっている。