日垣隆『サイエンス・サイトーク いのちを守る安全学』

本書は俺が気に入っている「サイエンス・サイトーク」シリーズ第3弾である。『サイエンス・サイトーク 愛は科学で解けるのか』と『サイエンス・サイトーク ウソの科学 騙しの技術』も相当に面白かったが、本書は個人的に前2冊を超えるクオリティだったと思う。

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ただし本書は、知的好奇心を純粋にガンガン刺激するような前2冊とは趣を異にしている。

本書は「いのち」という非常にデリケートな問題を扱っている。そして「いのち」という問題から逃げることがないし、横滑りもしていない。本書を読むことで「いのち」の重さを痛切に感じとることが出来るだろう。もちろん本書は、人権オタクやバカ共が言うようなニュアンスで、軽々しく「人間1人の命は地球より重いんだにゃ〜」などと述べているわけでは全然ない。そうではなくて、もし「いのち」のありようを本気で記述しようとするならば、それはやはり痛みと共に書かれねばならないし、読む方も痛みを伴う、また伴われねばならない――ということだ。ここで言う「いのち」の重みとは、つまり「痛み」のことなのだ。

本書には「犯罪被害者になった時」「災害報道は何を伝えたか」「化学物質との正しい付き合い方」「失敗に学ぶ」の4つのテーマによる対談が収録されている。1つ目の「犯罪被害者になった時」という対談は必読だ。少し長くなるが、そこから引用しよう。

日垣 弟が殺されて結局“学校事故”っていうことで処理されたのですけど、葬式などがあって十日間くらいしてから、ようやく僕は学校に行くんですね。クラスメートも、どうやって声をかけていいのかわからなかったみたい。十日ぶりで登校した日に、確率統計に関する数学の授業があって、教科担任は一人ずつ順番に兄弟姉妹の数をいわせたんですよ、全員にね。「三人です」とか「一人です」とかって答えさせていく。その数学の先生は、十日前に俺の弟が殺されていることは百も二百も承知なわけです。承知しているどころか、弟の事件で教育委員会へ虚偽の報告をしていた責任者が、まさにその数学の担任だった。俺としてはそいつの顔を見ながら授業を受けているだけで、十年分のエネルギーを使い果たしているって感じです。俺は四人兄弟だったのですが、十日前に弟が殺されている。順番が近づくにつれ、教室から逃げ出せないかって。汗もびっしょりかいちゃって。でも、順番が回ってきた。俺のなかでは立派に弟は生きていたので「四人です」って答えたら、「お前のとこ、三人になったじゃないか」って、その数学の先生にいわれて、ちょっと僕はそれからしばらく放心状態になってしまった時期がありました。毎朝、親が悲しむから家は出るんだけど、繁華街のゲームセンターかなんかに本物の悪友と行ってました。本当のことをいうと、今でも親しいその悪友が気を紛らわせてくれたおかげで、犯人や教師を殺さずに済んだんですけどね。

 クラスメートはクラスメートで、生徒会の呼びかけかなんかあったらしくて、亡くなった弟のために、カンパをやるなんていってくれたのはまあいいとして、全然集まらない。せいぜい何百円とか入ったまま、カンパ袋が学校中にヒラヒラ揺れているわけ。今でも夢に見ますよ。

小西 今のお話で、しばらく言葉を失っておりました。

日垣 小西さんの言葉に触発されて思い出しただけなんですよ。

有村アナ 聞くことが伝染や媒介につながるとおっしゃった意味が、いま見えた気がします。

著者の日垣隆は、自分が中学生の頃、13歳の弟が、弟と同じ13歳に殺されている。しかし少年犯罪であるため、その加害者の罪が問われるどころか、事故として処理されたらしい。そして被害者の家族には真相は何も知らされることもなく、13歳の加害者は事故の翌日から平然と登校してきていたらしい。

ところで、日垣隆は、対談やインタビューの前には相手の著書を全て読み、経歴や考え方も徹底的に調べ、本を書くときも徹底的にデータを調べ上げるらしい。そんなことは本書には全く書いていないので今から俺が書くことは推測でしかないけれど、このような彼のスタイルは、おそらく弟が殺された事件から来ているのかもしれない、と思ったりもする。自分が知りたいこと、つまり真実を何も知ることが出来なかったことの痛みや屈辱、やりきれない思い――そういった経験から生まれたスタイルなのだと勝手に推測している。

話がズレたので戻すが、俺は、先の引用を読んで何ら感じない方とは友人にはなれないだろうなぁと思う。もちろん、これは自分が体験したことではないのだから、俺らは被害者の痛みなど本当の意味では理解することは出来ないだろう。そんなことはわかりきっている。このような態度は同情と紙一重であり、ある意味では傲慢かもしれないということも、もちろんわかっている。しかし、それでもなお、想像力でもって被害者の痛みをわずかでも想像してみようとする、その態度こそが人間にとって最も大事なのではないだろうか。これはやさしさとか思いやりとか同情などではない。想像力の有無の問題なのだ。そして俺は想像力こそが人間にとって最も大事な能力のひとつだと思っている。俺は想像力の欠如した人間とだけは付き合いたくない。想像力の欠如とモチベーションの欠如は伝染する。

そういえば、実にタイムリーな――と言ったら不謹慎かもしれないが、先日、小学生8人が惨殺されるという事件が起きた。なんだか息苦しくなるような、とても痛ましい事件だった。けれど俺は当事者ではないから、いずれ――と言うかすぐに事件の記憶も痛みも忘れ去ってしまうだろう。しかし10年後も20年後も犯罪被害者は事件を忘れることは出来ないだろうし、彼らにとっては事件は永遠に終わらないだろう。そのことは認識しておく必要があると思う。

繰り返すが、どうせ俺らはすぐに忘れる。それは仕方のないことだ。けれど、それでもなお「忘れられない人々」に対して想像力を働かせること――それは決して同情ではない。それはとても大切な行為で、そこには部外者の持ち得る可能性が少しだけあると俺は思う。

少し蛇足めいてしまうが、2つ目の「災害報道は何を伝えたか」も必読なので、ぜひとも読んでほしい。阪神大震災の当日のラジオの記録が掲載されているのだが、貴重な記録である。街頭インタビューなのだが、その相手は、迫りくる火事を前に瓦礫に埋もれた息子を見殺しにしてしまった父親だ。インタビュアーは眼前の現実を全くと言って良いほど認識できていないから、クソッタレワイドショーのような大げさなリアクションは何も取らない。というか取れない。まるっきり「素」である。父親は父親で、まだ息子の死を実感できていないから、淡々とインタビューに答えている。むしろある種の静謐さを漂わせている。とても残酷な光景だ。これから父親は、真綿で首をしめられていくように息子の死を実感していき、ずっと「痛み」を抱えたまま生きていくのだろう。