小林よしのり『新ゴーマニズム宣言スペシャル 脱正義論』

色々な意味で非常に面白い本だと思う。本書単独でも面白いが、久々に読み返してみて、本書は後の小林よしのりの方向を決定づけた、非常に示唆的な著作と言えるのではないかと感じた。以下、本書のアウトラインを大ざっぱに書いてみる。

薬害エイズの問題に関心を持ち始めていた小林よしのりは、川田龍平を初めとした原告に直接に頼まれ、「支える会」の代表を務めて彼らのために運動のフロントマンになる。ただ、小林よしのりにとって、この運動は、正義感や良心ややりがいやイデオロギーから来る運動ではなく、(薬害エイズの被害に苦しんでいる)川田龍平ら原告に対する「情」が原動力の運動であった。そのため、小林よしのりにとって、「支える会」はいつまでも続く永続的拡散的な市民運動ではなく、「当時マイナーな問題だった薬害エイズ問題を世間に認知させて国から謝罪を勝ち取る」という明確な目標を達成するまでの、「期間限定」の運動だった。

また、その目標を達成するために、小林よしのりは、今までの運動――正義感や良心ややりがいやイデオロギーに燃えた「純粋まっすぐ君」が政治団体に扇動・洗脳されるような運動――とは違った、「薬害エイズに関心を持ってテレビや新聞で情報を集めている普通の人々が、限定的あるいは突発的に参加する」という運動の在り方を提示した。その運動の在り方を小林よしのりは「個の連帯」と呼んだ。

だが結局「支える会」は、当初の「薬害エイズ」だけの限定的な運動から「社会問題」全般を広くターゲットとする単なる市民運動となり、さらにメンバーの「充実感」を満たす為の自己目的的な運動へと堕落していった。また小林よしのりは「個の連帯」を目指したが、「純粋まっすぐ君」の脆弱な「個」は簡単に「組織」に回収されてしまった。ここにおいて小林よしのりは「そもそも自己を確立していない人に『個』を要求すること自体が間違いだった」と自分の考えの甘さに気づき、「個の連帯は幻想だった」と苦い敗北宣言を出した。そして自らが運動に引き込んだ読者に対して日常への復帰を促す――。

まあ、大体こんな感じのアウトラインだが、本書で注目するべき点は、小林よしのりが「全ての人の個が確立しているわけではない」ことに気づいてしまったという点である。何だかんだと小林よしのりは天才である。だから小林よしのりは、傲慢という言葉をもじった「ゴーマニズム」という「個」のイズムを振り回せるだけの自己を確立できていた。賛否両論あるにせよ、傲慢かましても何とかなるだけの人材だったのだ。しかし普通の人はそうではない。「個」といっても、他からの何の影響も受けない「個」を誰もがアッサリと獲得しているわけではない。ほとんどの人の「個」は、人間関係や政治やイデオロギーといったものに大きく影響されながら生きている。ゴーマニズムを武器に立ち回れるのは自分を含めた一部の天才だけだということを小林よしのりは今回の経験から思い知るのである。

「個の連帯は幻想だった」という挫折体験は、言い換えれば「ゴーマニズムの敗北」である。ゴーマニズムというイデオロギーであらざるイデオロギー、これをみんなが持ってゴーマンに立ち振る舞うことで、悪平等や悪良識やそれらがもたらす閉塞感に立ち向かえる――かつての小林よしのりは(素朴にも)そう思っていたのだろう。だが小林よしのりは見事なまでに敗北した。どうあがいてもゴーマニズムを持てないような人がいる――しかも多く存在する――ことに気づいた小林よしのりが、ゴーマニズムな「個の連帯」に変わるものを探し出そうとするのは不思議ではない。また、悪良識や悪平等といったものに対する憎悪が高じて右傾化してしまい、ゴーマニズムとは結びつかないと思われる『戦争論』の主要テーマ、「個」と「公」の概念をゴーマニズムの代替物として持ち出しても不思議ではない。

要するに、「右だ左だとしゃらくせえ」とゴーマニズムを武器に立ち回っていた小林よしのりが、(本人は否定するが明らかに)右傾化していく転換点こそ、本書における挫折体験なのである。少なくとも俺は、そう読み取った。非常に興味深い本だと俺は思う。