岡田斗司夫『ぼくたちの洗脳社会』

岡田斗司夫の最初の著書である。岡田斗司夫は「オタキング」と呼ばれ、東大でオタク文化論を開講するなど、自らのオタク的素養を武器に多方面で精力的に活動している。もし「オタキング」でわからなければ、「ガイナックスを立ち上げた人物」「『不思議の海のナディア』を手がけた人物」とでも言えばわかるだろうか?

人々は第一の波「農業革命」によって、自由を失った代わりに、飢えに怯えながら食料を探し回る必要のない生活を手に入れた。人々は第二の波「産業革命」によって、安定を失った代わりに、経済的な繁栄を手に入れた。そして現在、私たちは第三の波「情報革命」によって様々なものを失う代わりに、考え方や人間関係の自由を手に入れるだろう。第三の波を経て、私たちの世界は「自由経済社会」から「自由洗脳社会」へと変化を遂げる。このパラダイムシフトは「引き返せない楔」であり、もう二度と元には戻れない変化であるが、私たちは壊れゆく旧世界のパラダイムに対する少し苦い喪失感を背負いながら可能性に新世界を生きることになる――これが本書のアウトラインだ。

本書のハイライトは、やはり岡田斗司夫の提示する「洗脳社会」という異色の概念であろう。とはいえ、これは「洗脳社会」と聞いて思い浮かべるような物騒なイメージの社会ではない。自由な経済行為によって資本を競い合う「自由経済社会」が現在の産業社会であるならば、自由な(広義の)洗脳行為によって良いイメージを獲得しあう「自由洗脳社会」がこれから訪れる未来の社会形態なのである。つまり、産業社会で最も価値を持つものは資本であったのに対して、「洗脳社会」で最も価値を持つものはイメージになるのである。

確かに、本書の言うように、特に俺らの世代の中において産業社会の世界観は顕著に且つ急速に崩れつつあると言えるだろう。例えば、昔は仕事にアイデンティティを見いだして――つまり産業社会の申し子になることでモーレツに働いて数多くの金を稼ぐことが「仕事」であった。だが俺らの世代では、会社と自分を同一視することもほとんどなければ、金を第一の基準にして仕事を選ぶ人もあまりいないのではないだろうか? 俺らの世代では、昔のガンバリズムとは違った形での「やりがい」を、まず「仕事」に求めている人が多いと思う。金にも産業社会にも従属しないのである。だから「自分探し」などと言って定職に就かずにフリーターをする人も多かったりする。

それを「モラトリアム」だの「責任感の欠如」だの「言い訳」だのと言う人もいるかもしれないし、それは確かに一面では正しいのだが、大事なことは、既に俺らの世代とオジサン世代では精神構造自体が異なってしまっているということだ。本書を読むと、それがよくわかる。前掲のパラダイムシフトは、「引き返せない楔」である。もう二度と元には戻れない変化であり、旧世界のパラダイムを引きずっている人には、新しいパラダイムを元にした考え方はなかなか受け入れられないのだ。オタク世代(つまり俺らの世代)の代弁者たるオタキング岡田斗司夫の言葉は、俺にはとてもよくわかるのに、経済よりイメージが大事だという考えは、オジサン世代にはおそらく受け入れられないだろう。「神は死んだ」なんてことが中世の人々には受け入れられないのと同じように――。

この本は、俺らの世代ならば必ず読んでおくべきだと思う。俺らの世代の多くが共有しているメンタリティが、様々に言及されている。俺らのメンタリティは、オジサンから批判されるかもしれないが、それは必然性を孕んだ新しいパラダイムの考え方なのだ。この本を読んだときほど自分が勇気づけられたことは、他にはあまりない。

<追記>2011年に、『評価経済社会』という本で再発売。さらに2013年にインタビュー記事も追加収録された電子書籍も発売。