浅羽通明『野望としての教養』

『天使の王国 平成の精神史的起源』を著した浅羽通明の大作だったので、かなり期待していたのだが、正直「裏切られた」という感想を持った。

「<教養>とは何か」「<教養>はなぜ必要か」「<教養>を身につけるにはどうすれば良いか」などを学ぶことで、自己満足やファッションやアクセサリーに堕落してしまうような飾りものの<知>ではなく、自らの生きる指針となり得るような、本当の意味で使える<教養>の構築を目指す――といった内容。法政大学での講義を元に著している。

まず書きたいのは、内容云々の前に、はっきり言って無駄に長すぎること。500ページを超える大著で、何度となく途中で挫折してしまった。その度にまた最初から読み直すことになるため、結局、買ってから読み終わるまで1年半近くも経ってしまった。また、講義の雰囲気を生かすために話し言葉で著しているのだが、文法的な間違いや美しくない文章が散見される上、冗長な印象が拭えない。書き言葉に直してスッキリと書いてほしいところだ。あと、話があっちこっちにピョンピョン跳んでいるような印象も拭えない。もっとビッと一本筋の通った論理構成にしてほしい。観光ツアーじゃないんだから。

あと、「第十五講(最終章)」とか「あとがき」あるいは浅羽の別の本を見てると、いったい人文系の学者は何をやってきたのかとか、人文系の学者は遅れていて危機感がないとか、大学がいかに下らなくてカチカチに固まったところだとか、しつこいくらいに何度も何度も書いてある。それらは確かに一理あるとは思う。思うんだけど、大学や大学教授を批判してるわりには、「野望としての教養」のあとがきでは、以下のように書いてある。

日本の「世間」において、著者のようなフリー業者はクレジット・カードの査定からすらオミットされている。また警察の不審尋問に名を借りたいやがらせetcを免れるためにも、大学講師の肩書きはぜひともほしいものだった。

制度を批判しているのに、制度の恩恵は享受したい――そう無邪気に述べてしまっていることに対して、浅羽本人は何の疑問も恥ずかしさも抱かないのだろうか? 多くの人が「2ちゃんねる」に書き込んでいる「アカデミズムに対するコンプレックス」からの言動なのかどうかは俺にはわからない。ただ、『天使の王国』を読んだときとは違い、浅羽通明に対する根本的な矛盾や欺瞞や卑屈さのようなものを感じてしまったのは事実だ。ちなみに今は嬉々として早稲田大学の教授として頑張っているらしい。