太田光+中沢新一『憲法九条を世界遺産に』

憲法九条を世界遺産に (集英社新書)

憲法九条を世界遺産に (集英社新書)

爆笑問題太田光と『チベットモーツァルト』などで知られる宗教学者中沢新一による、日本国憲法憲法九条を中軸とする対談(ちなみに田中裕二は全く出てこない)。日本国憲法を、偶然が重なり合って出来た「一瞬の奇蹟」だと捉え、次代に遺すべきだという考えが、その根本にある。扉の文章を引用したい。

実に、日本国憲法とは、一瞬の奇蹟であった。それは無邪気なまでに理想社会の具現を目指したアメリカ人と、敗戦からようやく立ち上がり二度と戦争を起こすまいと固く決意した日本人との、奇蹟の合作ともいうべきものだったのだ。しかし今、日本国憲法、特に九条は次第にその輝きを奪われつつあるように見える。この奇蹟をいかにして遺すべきか、いかにして伝えていくべきか。お笑い芸人の意地にかけて、芸の中でそれを表現しようとする太田と、その方法論を歴史から引き出そうとする中沢の、稀に見る熱い討論。宮沢賢治を手がかりに交わされた二人の議論の行き着く先は……。

憲法九条について再検討を行うことは大事だと思うし、太田光については(彼の護憲論には与しないまでも)ところどころでは賛成できるところもある。幕間の「桜の冒険」という太田光の文章も、納得しがたい場所もあったが、強い覚悟を持って芸人として生きているのだと感じられる。少なくとも、芸人が芸ではなくストレートな言葉で護憲論を振りかざす危うさを強く認識していて、それでもなお彼なりの使命感で発言し続けているのである。
けれど、中沢は別だ。対談の冒頭で、いきなり「そこで今日はまず、いまの日本人にとっていちばん大きな問題となっているこの憲法を、宮沢賢治の思想を鏡にして、二人で考えていってみようと思うんです」などと言っている。なぜ「まず……宮沢賢治の思想」なのか、正直に言って不可解だし、納得できない。もっともらしく理由付けをしているが、2006年現在の憲法と現実をめぐる議論に「宮沢賢治の思想」が取っ掛かりになるとはどうしても思えないのである。太田光もそれに乗っかってしまうから、なおタチが悪い。結局、四章のうち最初の一章は、憲法を「宮沢賢治」を軸に検討する対談となっている。何となく示唆的で象徴的な感じはするものの、何らアクチュアルな議論になっていないように思う。
ところで中沢新一には(本人は過去の話だと思っているかもしれないが)オウムを擁護したというレッテルが付いて回っている。実際、中沢新一はオウムや麻原を賞賛していたし、中沢新一の翻訳書をオウム信者が耽溺していたことが世間に一層の誤解・疑惑を生んだ。翻訳書を誰が気に入るかなど、翻訳者に選ぶことは出来ないのだから、とばっちり的なところも確かにあったのかもしれない。しかし一方で、その後の対応は思想家として明らかに無責任だという思いも俺にはあった。そして本書の対談を読む限り、彼はオウム問題について、未だ何の清算もできていないと感じるのである。

太田 僕は何年か前に、オウムに与えた影響について、中沢さんに聞いたことがあります。そうしたら、自分のつくりだした思想や書物が、その先影響を与えたことに関しては気にしないとおっしゃった。だけど本当はそのとき、中沢さんは傷だらけだったと思うんです。
中沢 そのとおりです。
太田 だけど、そう言わざるを得ない。言わないと先に進めないみたいなところがあって、あえてそう言ったんじゃないかと思いました。何が正解かはわかりませんが、あのとき中沢さんが自殺したということになったら、また別の展開になったと思う。中沢さん自身が、自分は深く傷ついたということを表現するのも一つの方法だったんじゃないか、という気がしているんです。(略)
中沢 たしかに深く傷つきましたが、傷ついたということを表現することは、したくなかったですねえ。言い訳をするのも良くない。

二人は完全に馴れ合っているし、中沢新一も甘えている。中沢は、非があるならば非を認めてオウム信者やマスコミに伝えるべきだったし、非が無いと思うならば徹底的に論を張って、言い訳をすべきだった。太田光の言うように確かに何が正解かはわからない。しかし評論家ならば自分の言動に責任を持って、その言い訳をすべきなのである。傷ついたことを表現するかどうかといった太田光の話に、一流の(かどうかは知らないが、一応)思想家が乗っかって甘えてどうする。思想家が先に進むには、清算するしかないだろう。自分なりに悩んだのかもしれないが、結局は、自分の読者やオウム信者に対して、無責任に「無かったこと」にしただけである。未だにそんなことを言っている中沢にはガッカリさせられる。宮沢賢治を取っ掛かりに憲法九条を検討することの疑問を最初に述べたが、結局、中沢は確かに博学かもしれないが、アクチュアルな議論をするだけの構えが致命的に足りていないのである。