ポール・オースター『ミスター・ヴァーティゴ』

ミスター・ヴァーティゴ (新潮文庫)

ミスター・ヴァーティゴ (新潮文庫)

最近は(漫画は衝動買いするけれども)本を衝動買いすることはほとんどない。もちろん「出たら買う」と決めている作家や漫画家・シリーズも多く存在する(その意味では今でも本屋にとって俺はSランクかAランクの本屋の優良顧客であろう)。しかしそれらを除けば、まずケータイのメモ帳にある「買いたい本リスト」に追加した上で、図書館にあるかどうか、ある場合は2週間で読み切れる程度の内容か、一方、図書館にない場合は立ち読みで済ませられるかどうか、手元に置いて何回も読み返すような内容かどうか、Amazonマーケットプレイスブックオフで安く買えるかどうか、誰か持っていそうな人は周囲にいないか、そもそも本当に読みたいかどうか、そうした点についてリストの他の本と比較しながら吟味と調査を重ねた末に購入するのである。
しかし本書は(翻訳が村上春樹とも仲の良い柴田元幸ということもあり)表紙と帯を見て衝動買い。
特に帯のキャッチコピーが良い。

少年は「家族」を得た。
傷だらけの家族だったけれど――

前置きが長くなったが、ポール・オースターと言えば『シティ・オブ・グラス』『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』のニューヨーク三部作で一流の座を不動にした現代アメリカ文学を代表する小説家である。もちろん現役バリバリ。俺は『幽霊たち』しか読んでいないが、決してつまらないわけではなかった。むしろ非常に面白い。俺はいずれ読みたい本がなくなったら夏目漱石ポール・オースターを集中的に読もうと考え、いわば「おいしいものを最後までとっておく」タイプの作家に(個人的に)指定しているのである。
本書は(一部では低い評価を受けているようだが)俺は非常に面白かった。「訳者あとがき」によると、どうやら「おとぎ話」的な物語構造に影響を受けたそうで、いや、確かに言われてみれば「おとぎ話」的だと言えなくもない。
ろくでもない叔父と叔母の家に厄介になりながらセントルイスの街で小銭をせびって暮らす少年ウォルト(ウォルター・クレアボーン・ローリー)は、9歳のとき、イェフーディと名乗る怪しげな男と出会う。男は自分についてくれば空を飛べるようになって百万長者になれると言う。もちろん信じられるはずもないが、叔父と叔母に可愛がられているわけではなく、また13歳の誕生日までに飛べるようならなかったら自分を殺しても良いとまで男は言うのである。結局ウォルトはイェフーディ師匠についていくことを決心する。そしてウォルトは、冷たく謎めいたイェフーディ師匠、ジプシーの女であるマザー・スー、勉強はできるが体の曲がった黒人の青年イソップといった奇妙な「家族」と共に暮らしながら空を飛ぶための修行に励む。そして時々はイェフーディ師匠の恋人にして絶世の美しさを誇るあばずれの未亡人ミセス・ウィザースプーンも加わり、奇妙で切ない束の間の「家族」として暮らす――かいつまんで書くと、こんなプロローグである。
空を飛べるかどうかという点で行くと(最初の1ページ目で書かれていることだからバラすと)確かに空を飛べるようにはなる。しかし本書の面白さと切なさを際立たせているのは、その後である。ウォルトは確かに空を飛べるようになり、奇跡の少年ウォルト・ザ・ワンダーボーイとして、バブルに沸いた狂乱の1920年代のアメリカで一世を風靡する。そこで終われば確かに「空を飛ぶおとぎ話」で終わるのだが、本書はウォルト・ザ・ワンダーボーイとして生きた後のウォルトの人生もくまなく描写するのである。その視点は温かいとも言えるし冷たいとも言える。どちらでもあるのだろう。ひとつだけ言えるのは、少なくとも人生というのは誰であれ淡々としているようで意外なほど波乱と起伏に彩られているのである。それはウォルト・ザ・ワンダーボーイにおいても例外ではない。本書のタイトルでもある「ミスター・ヴァーティゴ」が何を意味するか、最初の数十ページで思いつける人はいないだろう。激動の人生を送るうちに「ミスター・ヴァーティゴ」の意味が読者にも明らかになるのである。