石原千秋『中学入試国語のルール』

中学入試国語のルール (講談社現代新書)

中学入試国語のルール (講談社現代新書)

石原千秋の本職は夏目漱石の研究者なのだが、「入試国語」という実にオリジナリティのある評論領域を開拓した人物でもある。著者は今までに『秘伝 中学入試国語読解法』『小説入門のための高校入試国語』『評論入門のための高校入試国語』『教養としての大学受験国語』『大学受験のための小説講義』と、中学入試から大学入試までの入試国語を論じたラインナップを揃えているのだが、本書は中学入試について論じた既刊『秘伝 中学入試国語読解法』の入門篇という位置づけになる。正直に言って、本書は入門篇というより端的に物足りない。著者の主張を堪能するには、シリーズの他の本を読むことを薦めたい(他の本はどれも面白いし満足できる)。
秘伝 中学入試国語読解法 (新潮選書)  小説入門のための高校入試国語 (NHKブックス)  評論入門のための高校入試国語 (NHKブックス)  大学受験のための小説講義 (ちくま新書)  教養としての大学受験国語 (ちくま新書)
しかし、もし本当に小学生が新書や選書を手にとって一人で読破するようなケースがあるならば、本書を薦めたい。『秘伝 中学入試国語読解法』は、小学生が読むには内容的にも分量的にもハードだからである。そもそも中学入試に取り組もうという子どもが、400〜500ページもある本を読んでいる暇はないような気もするし。
まあ前述したように、本書の内容は著者の他の本に比べると浅いのだが、気に入った箇所があったので引用したい(たまたまAmazonのレビューでも同じ箇所が取り上げられていた)。

 「最近の若者の日本語は乱れている」とよく言われます。しかし、少なくとも私の研究対象である明治維新以降、日本語が乱れていなかった時期はありません。「最近の日本語が乱れている」と言う人は、勝手に「理想の日本語」を作り上げて、それを規範にして日常使われている日本語を「乱れている」と言っているだけなのです。
 こういう具合に、文化を論じるときにも、「文化」というものを固定された規範として論じている場合が多いようです。近年の人文学では「創られた伝統」が指摘されることがあります。「伝統」だと思っていたことが、実は近代以降の創造物だった例が意外に多いのです。文化論には不勉強な論が少なくないので、出題者も注意してほしいものです。

そもそも「言葉の乱れ」が声高に叫ばれるとき、いつの時代の誰の日本語と比べているのだろうか? フェミニズム系の女流作家? 明治時代の文豪? 江戸時代の文士? 平安時代の古典? まさか縄文時代じゃないよな。結局「言葉の乱れ」なんていうものは「近頃の若いモンは……」と同レベルの中身すっからかんの主張だと思う。
ちなみに俺が「言葉の乱れ」について述べた文章の中で最も共感したものは、呉智英の『言葉につける薬』という本である。『言葉につける薬』の詳細は以前のエントリーを参照いただきたいが、その一部を再度引用したい。

近頃の若いモンの言葉遣いがおかしい。トシヨリなら必ず言う口ぐせのようなものだが、私が言うのは少し意味が違う。普通トシヨリが非難するのは、若い女性が乱暴な言葉遣いをするとか、「見られる」を「見れる」とするような俗語表現・口語表現に関わるものだ。こういったものは、あまり意味のある非難とは思えない。俗語表現はいつの時代にもあったものだし、俗語表現なのだから乱暴に決まっている。若い女性たちが「てめえ、ハンバーグおごれよ」などと言い合っているのは、彼女たちの仲間同士の親密さの表われにすぎない。彼女たちも、これはと思う男性が登場してなお「てめえ」とは言いはしない。逆にお上品ブリッ子になってしまうだろう。

近頃の若いモンの言葉遣いがおかしい、という声は良く耳にする。しかし、そういう人たちに何がどうおかしいのか、つっこんで聞くと、たいてい、流行語のことであったり、仲間同士の乱暴な口のきき方であったり、ということばかりだ。こういうものは、おかしいと言う方がおかしいのだ。近頃に限らずどんな時代でも、粗野な表現、軽薄な表現、くだけた表現、というものは存在する。それが使われるべきでない場所で使われた場合のみ、ふさわしくない言葉として非難されてもよい。

うーん、この2つの引用文は何度読み返しても至言だ。俗語表現・口語表現(いわゆるスラング)は、乱れているからこそスラングなのである!
言葉につける薬 (双葉文庫―POCHE FUTABA)