バタイユ『マダム・エドワルダ/目玉の話』

マダム・エドワルダ/目玉の話 (光文社古典新訳文庫)

マダム・エドワルダ/目玉の話 (光文社古典新訳文庫)

浪人のときにバタイユを読み「これはエロ本だから、それなら今まで通りフランス書院文庫を読もう」と勘違いして読むのを中断して以来、初めて真面目にバタイユを読んでみたが……壮絶である。
文学あるいは芸術の定義とは果たして何だろうか。美しさ? 感動? 興奮? 雰囲気? 伝統? 残念ながら俺には文学にも文学史にも文学センスにも縁がないのだが、仮に圧倒的なパワーを持ち、鑑賞者に自己変革を迫る表現行為を「芸術」と定義づけるとするならば、これはやはり――間違いなく一級品の芸術であろう。
冒頭からいきなりKOパンチが放たれる!

きみがあらゆるものを恐れているのなら、この本を読みたまえ。だが、その前に断っておきたいことがある。きみが笑うのは、なにかを恐れている証拠だ。一冊の本など、無力なものに見えるだろう。たしかにそうかもしれない。だが、よくあることだが、きみが本の読み方を知らないとしたら? きみはほんとうに恐れる必要があるのか……? きみはひとりぼっちか? 寒けがしているか? きみは知っているか、人間がどこまで「きみ自身」であるか? どこまで愚かであるか? そしてどこまで裸であるか?

理屈ではなく、インスピレーションに訴えかけ、猛烈に自己変革を迫る文章である。あくまでもインスピレーションという点が“ミソ”で、バタイユの文章は断じて分析的に読むようなものではないと俺は思った。もちろん、消費だの至高だのポストモダンだの消尽だのと、色々とカッコイイことを取り出してきて並べることも可能だけれども、果たしてバタイユはそんなこと望んでいるだろうか? もちろんバタイユを読んだのはほとんど初めてなので、偉そうなことを言うつもりは毛頭ないけれども……。
それにしても俺は本書を読みながら、村上龍を思い出さずにはいられなかった。内面描写ではなく行動描写。あからさまな(つまり露悪的な)エロス。通俗的な倫理観など完全に無視したストーリーとモチーフ。いや、むしろ通俗への挑戦か。俺は文学史の類には全く詳しくないので、村上龍のテーマや文体はあくまでも「佐世保」という土地柄(注・米軍基地がある)から影響を受けたアングラカルチャーの体験がベースにあるのかと思っていた。しかし初期の村上龍の文章は、バタイユに驚くほど似通っている。勝手な想像だが、村上龍もまたバタイユに自己変革を迫られた人間だったのかもしれない。
ところで光文社古典新訳文庫は(気になっていたものの)初めて読んだが、実に良い。「いま、息をしている言葉で」というキャッチコピーも良いね。村上春樹だったか誰だったか忘れたが、以前「翻訳は母国語と違って古びるし、読み手は複数の選択肢があった方が良い」というようなことを書いていたことを思い出す。本書は実に読みやすい。光文社古典新訳文庫の他のラインナップも読んでみようかな。