酒井穣『あたらしい戦略の教科書』

あたらしい戦略の教科書

あたらしい戦略の教科書

『はじめての課長の教科書』という本を書いた著者による新刊。

新刊と言っても発売から少し時間が経ってしまったなあ。本当は発売直後に読んでいたのだが、著者は以前、わざわざ俺の『はじめての課長の教科書』のエントリーにコメントをつけてくれたため、何だか妙なプレッシャーがかかり、感想を後回しにしていた。しかし後回しにしたところで大した感想が書けるわけでもなく、諦めて再読。
様々な特長があるのだが、本書の特長を鮮明にしていると個人的に感じるのは、「戦略」を「トップマネジメントがトップダウン戦略を立案・遂行するためのツール/概念」から「現場からのボトムアップ(ないしはミドルアップ)のためのツール/概念」と捉え直していることである。小難しい戦略論の大半は、トップマネジメントとコンサルタントとMBA学生のための理論に過ぎず、それを簡潔に説明した本の多くは単なる概念の紹介に堕している。また現場重視の戦略論(と自称しているもの)の多くは、戦略論というよりも経験談や精神論が多く、ほとんど役に立たないのである。その意味で、若手やミドルが「戦略」をきちんと理解して、そして実践するための教科書としては、本書は確かに稀有な立ち居地を確保し得ていると思う。
その他に、個人的に極めて重要だと感じた箇所を2点だけ取り上げたい。
ひとつは、戦略と戦術の関係である。本書では戦略と戦術をむやみに区別しようとすることに反対している。戦略論の世界では、戦略はピラミッド構造になっており、ピラミッドの下層の戦略(つまり現場の戦略)を「戦術」と定義する考え方が一般的であること、ビジネススクールで使用されている著名な経営戦略の本でも戦略と戦術を明確に区分していないこと、戦術という言葉は軍事やスポーツやゲームといった世界で用いられる限定的な用語であること――などが理由として挙げられている。これには「なるほど!」と強く頷かされた。
俺は著者が述べていたような理由で明確に戦略と戦術を区別していたわけではないが、「これは戦略だから」「これは戦術だから」という区分に対しては、ずっと(漠然とではあるが)違和感を感じてきた。例えば、前の会社でのディスカッションや会議では「それは戦略だから、戦術について話し合おう」といったことを何度か言われたことがある。俺に言わせれば「しゃらくせえ!」である。戦略だろうが戦術だろうが、必要なことを考え、実行すれば良いのだ。言葉にこだわって、やるべきことを見失ってはならない。このような視野狭窄的な議論に対して、本書のような「戦略と戦術」を「全体と部分」のレイヤーで捉えようとする考え方を持ち込むことは、非常に有効であろう。
もうひとつは「バックアップ・プラン」の重要性である。
バックアップ・プランの重要性を理解できるかどうかは、突き詰めれば、「リスク」という概念の重要性を理解できるかに尽きると思う。日本にはリスクという概念がなく、日本語にもリスクに対応する言葉がない――以前、村上龍はそう指摘して日本社会を憂えていたが、その状況は今なお全く変わっていない。そしてビジネスの世界でも同じことが言えるだろう。
リスクということの考え方をきちんと理解していれば、現在、一般にリスクといわれているものには「取らなければならないリスク(リターンと裏腹になっているリスク)」と「取る必要のないリスク」の2種類があることに気づかされる。前者は、統計学の世界などで育まれてきた、リスクの本来的な意味である「不確実性」という文脈で用いられる用法であり、代表的なものにマーケットリスクがある。新事業への立ち上げも同じことが言えるだろう。リスクを下げるということは、損をする可能性も得をする可能性も下げてしまうから、ここで言うリスクはゼロにすれば良いというものではない。どの程度のリスクをテイクすればどの程度のリターンを得られるか、そしてリスクがどの程度顕在化すればどの程度の損失を被り、それは許容できるか――という観点で、適切な水準にコントロールしていくべきものである。これはビジネスでは金融の世界では普通に使われている概念だが、もちろん非金融のビジネスでも全ビジネスマンが備えておくべき基本的資質だと俺は思う。一方、後者は取る必要のないリスクだ。これは統計学の世界で言っているような「不確実性」という意味合いとは少し違い、むしろ単なる「危険性」のような意味合いで、代表的なものに風評リスクや情報漏洩リスクがある。これはリスクを取っても(ほとんどの場合)リターンが得られない。
両者の「リスク」の概念の違い(というかそもそも「リスク」という概念そのもの)が全く踏まえられていない日本の文脈に腹立たしい思いをしているのだが、まあちょっと話がズレたので元に戻すと、このリスクという概念は戦略においても非常に重要だということが、前述したバックアップ・プラン(P32)などの記述を読むとよくわかる。立てた戦略が必ず正しいとは限らないし、必ず実行できるとも限らない。上手く実行できていたとしても、予期せぬことはいつでも(そしてマーフィーの法則的には起こってほしくないときに限って)起こるのである。そのときに、あらかじめ起こる確率の高いリスクを洗い出し、リスクに対するバックアップ・プランを用意することが重要だと本書では述べている。これは極めて有効な示唆だと思う。