大前研一『「知の衰退」からいかに脱出するか?』

「知の衰退」からいかに脱出するか?

「知の衰退」からいかに脱出するか?

21世紀の教養とは?

副題は「そうだ!僕はユニークな生き方をしよう!!」である。今さら改めて言うまでもなく大前研一は並ぶ者のないほどユニークな存在だが、それはさておき、この本は良いなあ。全体的に面白いが、第10章の「21世紀の教養」という章では、これまでの大前研一が(おそらく)語ってこなかった大胆な主張がなされている。借りてきた本なので、内容を忘れないためにも、今日は長めに引用を行いたい。
まず大前研一は、「教養」という言葉から連想するものとして以下を挙げている。

  • カント、ヘーゲル、デカルトなどの哲学者
  • ドストエフスキー、トルストイなど古典文学を中心とした文豪
  • ベートーヴェンやモーツァルトなどの楽聖
  • ルネッサンス期や印象派の絵
  • マルクスやケインズなどの経済学の大家
  • ニュートンやアインシュタインなどの科学者
  • 藤村や漱石などの日本の文豪
  • 丸山眞男や岩波新書など

俺も、上記の例に対して何も異存はない。多くの人は、いわゆるハイカルチャーの類を「教養」として思い浮かべるだろう。しかしこれらの教養を眺めていて思うのは、今これらの教養は果たして必要とされているのだろうか、という点である。ここで「教養」の定義を云々するつもりは毛頭ないが、少なくとも教養というものは、社会生活において一人前の人間が、「常識」「たしなみ」として持っておくべきものであったはずだ。しかし俺は、社会に出てから、このようなハイカルチャーを題材に議論を交わしたことなど数えることしかないのである。この問題についての俺個人の考えは、大前研一とほぼ同じである。つまり、あるに越したことはないし、あると人生が豊かになる可能性を大いに秘めているが、少なくとも21世紀のビジネス社会は、これらのハイカルチャーが社会人の「常識」「たしなみ」として要求される時代ではない、というものである。
では何が21世紀における「常識」「たしなみ」なのか――という疑問に対して、大前研一は以下のように考えている。ここが面白い! かなり長くなるが、引用しておきたい。

 最近では、世界のエグゼクティブと言われる人間でも、伝統的な教養をあまり知らない。われわれが古典と呼んできたものを、なぜかほとんど話題にもしない。それで、自然とこちらもそういうアプローチを取らざるをえなくなってしまった。
 これは、文学にしても音楽にしてもそうで、とくにクラシック音楽となると、彼らはほとんど聞いていない。だから私は、最近は音楽の話をいっさいしなくなった。
 文学に関して言えば、たとえばアメリカのビジネススクールに行ったような人間は、古典文学はほとんど読んでいない。アメリカ人なら、せいぜいアイン・ランドを読んでいる程度で、文学のブの字も知らない。
 日本人も古典は読まなくなったが、これは何も日本人だけではないのである。
 では、かつての「教養」は現代においてどういう言葉と置き換えればいいのか? どんな話題が、彼らエグゼクティブの共通の話題なのだろうか?


「あなたは、近年の環境問題とその対策について、どう思うか?」
「アフリカのエイズの人たちのために、あなたは最近何かをしたか?」


 これらが、彼らがほぼお決まりのように口にすることである。商談後のスモールトークでも、パーティでも、彼らはこんな質問を必ずしてくるようになった。
 教養というものの重要な機能の1つは、「知的基盤の共有」である。とすれば、この質問に的確に答えられる「知識」と「見識」あるいは自身の「経験」を持っていなければならない。つまり、いま共有すべきは、かつて古典として幅広く通用したものではなく、煎じ詰めれば、「地球市民として具体的にどのように考え、どのようなアクションを起こしているか?」という意識なのだ。
 グローバル化はこのように、人々の意識そして優先順位、をも変えてしまったと言うほかない。
 もちろん、自分が育った国、地域の文化や伝統への深い知識、理解も要求される。一般的な知識はもちろん、古典的教養も重要であるが、それ以上にグローバル化したこの世界では、1人の個人としての意識が重要視されるようになっている。
 したがって、これを「21世紀の教養」と呼ぶしかない。
(略)
 これからは、金融のプロであっても、環境問題について語れなければダメ、緑化問題の話ができなかったらダメというわけだ。たとえば「バイオ燃料についてどう思うか?」と意見を求められたら、即座に「私はこう考えている」と答えないと、話の輪から外されてしまう。
 私がよく会うヨーロッパのビジネスリーダーたちも、「私は収入の10%をビル・ゲイツのように、慈善団体に寄付しています」とか、「1年のうちの1ヵ月は夫婦で休みをとってアフリカの国に行き、貧困問題に取り組んでいます」などという話をする。多忙なはずのビジネスリーダーたちが、これをごく普通に言う。


「あなたは地球を商売の道具にする一方で、この地球に何を返していますか?」


 というわけである。
 これは、昔なら貴族に要求された「ノーブレスオブリージュ」(noblesse oblige)であり、現在のリーダーたち、教養人たる人たちの一種の義務と考えていい。
 つまり、ビル・ゲイツが、まず10億ドルのマイノリティ向けの奨学金をつくり、その後、33億5000万ドル(当時のレートで約4020億円)という史上最高額の基金の「ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団」(Bill & Melinda Gates Foundation)をつくったように、世界第2の金持ちであるウォーレン・バフェットが自分のほぼ全財産を同財団に寄付する、と言っているのも同じことだ。すなわち現在の地球上の問題解決のために貢献せよ、そして、それを常に意識して話題にせよ、ということである。
 ちなみにビル・ゲイツは、2005年に自己資産の85%(推定440億ドル=5兆2800億円)を寄付すると発表している。

まさか大前研一が、こんな話をするとはなぁ……と深く感じ入った。しかし俺は圧倒的に共感してしまったのである。実のところ、俺は昔から「偽善」的な行為を嫌悪していたし、今でもそのような気持ちがないわけではない。しかし一方では、偽善でも何でも誰かのためになるなら良いじゃないか、ということも最近は考えるのである。
いずれにせよ、大前研一が提唱した、21世紀の教養としての「ノーブレスオブリージュ」という概念を、大前研一とは違う視点で俺なりに煎じ詰めれば「評論家ではいかんのだ!」ということではないかと思う。ひとりの人間として何かを考え、そして何もしないのであれば、大前研一の言う21世紀の教養人たりえないのである。これからの教養人は「実践者」でなければならない。そして地球の問題にリアリティを感じる想像力が必要だ。*1
1週間前に読んだ『社会学の名著30』の中で、竹内洋は(1950年代の日本においては)「『搾取』も『階級』も理論以前に生活実感をともなった言葉だった」と述べていた。グローバル化が進む世界において、地球規模で起こる「経済格差」や「環境問題」といった言葉をどの程度「生活実感」を伴った言葉として受け止められるか、俺たちは試されているように思う。

日本におけるノーブレスオブリージュの試み

この話を聞いて俺が思い浮かべたのは、勝間和代が立ち上げたChabo!(チャボ)である。正直に言うと、俺は(以前に書いたように)Chabo!(チャボ)については幾つか細かい不満があるのだが、大枠としてはChabo!(チャボ)の試みを大いに応援している。勝間和代や酒井穣といった、ネットを最大限に活用した書き手が関わっている点も興味があるしね。まあChabo!(チャボ)以外にも、ノーブレスオブリージュ的な活動は、これから日本でも大きなうねりとなってくるのではないかと思う。いや、半ば期待かな。

極私的ノーブレスオブリージュ

まだ着られるけれども、もう着ない、という衣服は処分に困るものである。どうしたものかと思っていたが、寄付という手段があることに思い至り、俺は先日「要らない衣服」を2ヶ所に寄付した。ひとつが「山谷夜回りの会」という、東京の山谷地区のホームレスに対する支援団体である。ここは使い古しの靴下や下着・Tシャツの寄付ができるので、寄付先として選んだ。今は寒いので、厚手の服なども喜ばれるだろうと考えて一緒に送った。ただしカッターシャツは受け付けていないので、カッターシャツについては「NPO法人 日本救援衣料センター」というモンゴル・ラオス・ガーナ・アフガニスタンなどを支援している団体に送ることにした。
寄付というよりは、単に要らない服の処分をしただけだろうって? その通りである。はっきり言うと、俺は要らない(が、十分に使用に耐え得る)衣服をゴミとして捨てるのが嫌だったので、寄付という形で処分したのである。しかし、ひとつだけ書かせてもらえば、こうしたものは無理のない形で行うことが重要だと思う。自分の生活を苦しくしてまで寄付に回しても、その行為はおそらく続かない。小銭が財布を圧迫しているときは小銭をコンビニの募金箱に入れて財布を軽くするとか、自分が共感した活動に対しては募金という形でささやかな支持を表明するとか、自分は要らないけれど他人が必要とするものを寄付するとか、そういう形で良いのだと俺は思う。それは小さな一歩かもしれないが、世界が昨日よりも望ましい方向に向かう一歩ではないだろうか。いや、たとえ何も変わらなかったとしても、自分がより良き人間であろうとした事実は残るのである。

*1:ここで「実践者」と書いたのは、何も「運動」をしろと言いたいわけではないので、誤解なきよう。