呉智英『言葉の常備薬』

言葉の常備薬

言葉の常備薬

敬愛する思想家による、言葉を題材としたエッセイ集。俺は図書館で借りたので単行本だが、既に文庫が出ているので、もし買う場合は双葉文庫版の方が良いだろう。
言葉の常備薬 (双葉文庫)
呉智英の本は久しぶりに読んだが、勉強になるだけでなく、実に面白い。何よりも面白いのは、「ある言葉の使い方」をしている人間を、実例を挙げて徹底的に叩きのめして見せるところである。本書でも、何人もの文筆家が「ある言葉の使い方」をしたばかりに、呉智英から手酷い批判を受けている。
例えば、呉智英は、いわゆる「若者言葉」には寛容である。呉智英は、俗語・スラング・若者言葉については様々な本で(決して自分が使いたいわけではないと前置きしつつ)寛容な姿勢を何度となく示している。名著の誉れ高い『言葉につける薬』にも以下のような文章があるので、これまでにも何度か紹介しているが、改めて紹介しておく。

近頃の若いモンの言葉遣いがおかしい。トシヨリなら必ず言う口ぐせのようなものだが、私が言うのは少し意味が違う。普通トシヨリが非難するのは、若い女性が乱暴な言葉遣いをするとか、「見られる」を「見れる」とするような俗語表現・口語表現に関わるものだ。こういったものは、あまり意味のある非難とは思えない。俗語表現はいつの時代にもあったものだし、俗語表現なのだから乱暴に決まっている。若い女性たちが「てめえ、ハンバーグおごれよ」などと言い合っているのは、彼女たちの仲間同士の親密さの表われにすぎない。彼女たちも、これはと思う男性が登場してなお「てめえ」とは言いはしない。逆にお上品ブリッ子になってしまうだろう。

近頃の若いモンの言葉遣いがおかしい、という声は良く耳にする。しかし、そういう人たちに何がどうおかしいのか、つっこんで聞くと、たいてい、流行語のことであったり、仲間同士の乱暴な口のきき方であったり、ということばかりだ。こういうものは、おかしいと言う方がおかしいのだ。近頃に限らずどんな時代でも、粗野な表現、軽薄な表現、くだけた表現、というものは存在する。それが使われるべきでない場所で使われた場合のみ、ふさわしくない言葉として非難されてもよい。

一方、例えば、「すべからく(須く)」を「すべて(全て)」の意味で使ってしまうと、たとえプロの文筆家ではない新聞投稿であっても容赦なく実名で批判されてしまう。
事実、この間違いは至るところで見かけるものである。「すべからく」は、漢文を訓読した際の「すべからく〜すべし」から来ているが、だんだん「〜すべし」の対応関係がないまま「すべからく」だけが独立して「すべて」の高級表現であるかのように使われるようになっている、というのが間違いの実態である。しかし、呉智英は「すべからく」の誤用を単なる間違いとは見ていない。「すべて」の意味の言葉を使いたいなら「すべて」と書けば良いのである。そこをあえて「すべからく」と書いてしまうのは、「単なる誤りではなく、自分の文章を高尚なものに見せようとした『卑しい考え』による誤用だ」と批判しているのである。
そこまで言わんでも……と思うかもしれない。
しかし一理ある。
そして「大人気ない」のも確かだ。
要は可愛いおっちゃんなのである。
このような呉智英の思考特性・行動特性を考えると、(誰も頼んでいないのに)言論のプロ・言葉のプロを自任している新聞の社説の誤用に対しても舌鋒鋭く批判するであろうことは、火を見るよりも明らかだ。本書の冒頭でも、気持ち良いくらい徹底的に批判がなされている。例えば「捨てる」を「捨象する」と書いてしまった某新聞の例。呉智英に言わせれば、やはりこれは単に「捨象する」を「捨てる」の高級表現だと思い違いをしているだけではなく、自分の文章を高尚なものに見せようとしている「卑しい考え」による誤用であり、許しがたいのである。
まあ呉智英の反応は少し大げさ過ぎるかもしれない。しかし、自分で意味がわかっていないのに何となく使ってしまうようなことは避けるべきだろう。呉智英の本を読むと、お茶目なところを微笑ましく思う反面、自分が「卑しい」考えにとらわれていないか――と、身が引き締まる。incubator.hatenablog.com