呉智英『健全なる精神』

はじめに

知識人・文化人・思想家と呼ばれる類の人種はこんな言い回しをよくする。

  • 日本と違いアメリカでは……
  • ラカン派の人間から言わせてもらえば……
  • フッサールが言うには……
  • 近頃の人間はカントやヘーゲルすら読まずに……
  • そんなもの皆の常識として……

呉智英は違う。権威に頼った言論活動は一切していないし、今後もしないだろう。あくまでも論理(ロゴス)を手がかりに自分の頭で考え、表現してきた思想家である。もちろん知識人・文化人・思想家と呼ばれる類の人種は本来こういうものだろうと思うのだが、残念ながら現状そうなってはいない。その意味では異色の思想家と言って良い。

呉智英は時に極論・暴論に思えることを言うこともあるし、人を食ったような表現もする。あえてトリックスターを演じている面も見受けられるが、俺はもちろん呉智英の全言論に賛成するというわけでもない。しかし、それでもなお俺は呉智英のことを最も「真っ当な」思想家のひとりだと思うのである。

本書について

本書の「まえがき」を引用してみたい。

 私はあまり健全なる肉体を有してはいない。筋骨逞しくもないし、しばしば病院の世話にもなる。しかし、精神はきわめて健全である。健全なる精神は健全なる肉体に宿るという有名な格言がある。これは、典拠である古代ローマの諷刺詩人の言葉を改竄したもので、本来は、健全なる肉体に健全なる精神が宿れかし、というものらしい。どちらにしろ、健全なる肉体と健全なる精神に直接の関係はないはずだ。スポーツ選手で健全ならざる精神の持ち主はいくらでもいるし、病弱者で精神の健全な人もいくらでもいる。こんなことは、大した学問は要らない。少しまともに考えてみればわかることだ。それが健全なる精神である。

 私はこの健全なる精神で言論活動を続けてきた。ごく普通に売られている本を読み、ごく普通の知識を身につけただけで、少しまともに考えればわかることを言ってきた。

 たとえば、民主主義。

 民主主義は少数者の立場を尊重する思想である、という人がいる。いや、新聞でも書物でもしばしばそのように説かれる。

 だが、そんなバカなことがあろうか。民主主義は多数者の立場を少数者に押しつける思想に決まっているではないか。フランス革命は、王侯貴族など少数者を打倒した多数者民衆の運動であった。少数者の立場を尊重したら、反民主主義的な王制はそのまま続いていた。アメリカ独立革命も、多数者の立場を少数者に押しつけるものであったからこそ、その後の少数者黒人を奴隷にする制度が保障されたのである。

 少しまともに考えればわかることだ。健全なる精神を働かせてみればわかることだ。時代の歪み、社会の歪みは、自然に見えてくる。腐った常識、病んだ良識に挑むもの、それが健全なる精神である。

この「まえがき」を読んで、何でも良い、何か疼くものがないだろうか? 魂の震えはないか? 自問自答は起こらないか? それらが一切ないなら、その人はおそらく「健全な精神」を持ち得ていないのだろう。もちろん、そんなものを持っていなくとも幸せに生きていくことはできる。何も考えない大衆は日本中どこにでもいるし、考えているつもりで権威にすがったインテリ崩れもどこにでもいる。それで社会は何の問題もなく回っているのである。

しかし、仮に今そうだとしても、その生き方を受け入れられない反骨精神がまだ残っているなら、その人は呉智英の試みにまんまとハマっているのかもしれない。健全な精神に向けた第一歩である。

「坂東眞砂子『子猫殺し』を論ず」について

これまでも呉智英は傑作を数多く生み出してきたが、本書の第一部「健全なる精神は健全なる言論に宿る」は、特に素晴らしい。相変わらず極に振った議論が多いけれど、それがまた面白いので、幾つか紹介する。

例えば、2006年に日経新聞夕刊のコラム「プロムナード」に掲載された坂東眞砂子の「子猫殺し」をめぐる一連の報道を覚えているだろうか? 呉智英がこのコラムについて論じた文章の一節を引用してみたい。*1

 坂東眞砂子は、世の動物愛護家からの糾弾罵倒が来るのは承知の上、とことわって、こんなことを書いている。

 タヒチで自分が住むあたりは人家もまばらな草地や山林で、野良猫、野良犬、野鼠などの死骸はいくらでもころがっている。そこに子猫の死骸がふえたとしても、人間の生活環境も自然環境も変わりはしない。飼い猫に避妊手術をすることも考えたし、それに異を唱えるものでもないが、雌の獣にとっての生とは、発情期に交尾し、出産することだと、自分は考える。避妊手術も人間のエゴ、子猫を殺すも人間のエゴ。「それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない」。

 大略そんなことを坂東眞砂子は書いている。

 私は、子猫殺しに賛成しない。私なら、避妊手術を施すだろう。しかし、子猫を殺した坂東眞砂子の選択をまちがっているとも思わない。坂東の文章をちゃんと読めば(別段難解な文章でもないし)、十分に説得力を感じる。新聞のコラムやエッセイには、なまぬるい言葉で良識をなぞっただけのものが多いのだが、坂東のコラムは緊張感ある言葉で読者に内省を促してさえいる。

 しかし、この「子猫殺し」には大反撥が起きた。日経新聞に対し、抗議の電話やEメールなどが直後の六日間だけで八百件も寄せられ、他紙は大事件でもあるかのように大きな記事にした。

 坂東眞砂子は言う。「愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ」と。その通りだ。人間の動物への関わりは、いずれも人間の都合なのである。

 希少動物の保護だって、その動物に限って貴重だと人間が判断しただけである。私は、希少動物保護派である。希少動物を保護することによって周辺の原住民の生活が多少圧迫されたって、断乎たる保護策を採るべきだと思っている。しかし、それでも、希少動物保護は人間の都合・判断によるものだとの認識はゆるがない。

 肉や毛皮や羽毛や乳や卵を利用する家畜は、言うまでもない。何千年にわたる品種改良は、自然状態では生きてゆけない一種の畸形まで作り出した。乳牛は、人間によって人為的に搾乳しないと、乳腺炎になって死んでしまう。噴火や地震などの災害が起きた村で、人間が避難した後に放置された乳牛は、多くは餓死ではなく乳腺炎によって死ぬ。

 鑑賞動物・愛玩動物も、同じである。その愛情は、人間の勝手な都合なのだ。夏の風物詩、金魚が、ゆらゆらひらひら美しく泳ぐのは、畸形化された体とひれのため、そのようにしか泳げないためである。むろん、このような泳ぎ方では、自然状態では生きてゆけない。飛び出した目が可愛い出目金は、視力が高いどころか、著しく視力が低下している。泳ぐに適さない鰭を持ち、ほとんど見えない目を持つ金魚を、浴衣がけの家族連れやカップルは、金魚すくいと称して笑いながら虐待するのだ。

 それで一向にかまわないではないか。*2

 私は動物好きである。とりわけ犬は何度も飼った。愛犬が死んだ時は、ほとんど慟哭した。それでも、やはり、人間の都合だと思う。犬だけではなく、変わった動物ではカンガルーを飼ったこともある。最近は、住居の制約から飼えるのは残念ながら意馬と心猿くらいだが、いつかまた犬を飼ってみたいと思っている。そして、廃鶏で作られたドッグフードをやって、愛犬が喜ぶさまを目を細めて眺めたいと思う。

俺も「このオバサンは悪趣味だな」と思ったし、どうせ殺すのがわかっているなら、産ませる必要もないと思う。しかし、坂東眞砂子のコラムには「飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。しかし、それは飼い主の都合でもある」という一節があった。この考え方には、一定の説得力がある。

そして何より、これを取り上げ論じた呉智英の覚悟と言ったら! いや、覚悟という表現すら生ぬるい。呉智英にとって、人間の差別や傲慢の心を積極的に認めて肯定する思想は、もはや前提であり、日常に根ざした生そのものなのである。果たして「それで一向にかまわないではないか」と書ける思想家は、何人いるだろうか? 俺はほとんどいないと思う。

「『団塊の世代』という公理系」について

個人的に「人間の差別や傲慢の心を積極的に認めて肯定する思想」は呉智英の核心ではないかと思っているので、これがわかる文章をもう少し引用しておきたい。差別については、差別は良くない、しかし現実に差別があるのも事実だし、差別と区別を混同することで健全な格差が生まれない――という物言いが、一部の行き過ぎた悪平等に対してしばしば語られる。しかし呉智英は、この発想そのものに根本から疑問を投げかけているのである。

 今なお猖獗しょうけつやまぬ差別狩りも、全共闘時代に始まったものである。私が「差別狩り」と言うのは、単なる「差別語狩り」に止まらない、その基底部にある差別そのものを社会から抹殺しようと言う風潮を懐疑したいからである。

 差別語狩りは、しばしばその“行き過ぎ”が批判されてはいるものの、一向に終息しない。それどころか、差別語狩りによって逆に差別が隠蔽されてしまうことさえある。私が言いたいのは、差別が陰湿化するというような通俗論ではない。先年、石原慎太郎東京都知事が支那を「支那」と呼んで、いわれなき批判を浴びた。世界共通語である「支那」を日本人に限って禁ずることこそ差別であるのに、この差別は隠蔽されているのだ。

 団塊の世代は、自分の青年期である一九七〇年ごろまで、支那を「支那」と書いた書物が新刊でも普通に出され、自分でもそれを読んできたのに、石原発言批判批判・・・・をしようとしない。そうした団塊の世代は一貫性もないし、情けないじゃないかという声が団塊以降の世代から挙がるかといえば、そんなものは聞いたこともない。

 理由は言うまでもなかろう。団塊の世代以降、用語系も公理系もただ一種類になっているからである。差別はイケナイという公理を疑う者は、地を払ったように誰もいない。数年前テレビの討論番組で、なぜ人を殺してはいけないのかと問うた学生はちょっとした知的英雄になったが、なぜ差別をしてはいけないのかと問うたら、そうはならなかったろう。現代では、差別は殺人より数等劣る悪行なのである。差別はイケナイという公理を疑い、差別は正しいなんてことは、誰も口にしない。差別語狩りが不当だと多くの人が思っているのに、それでも差別語狩りが止まないのは、その根底に差別はイケナイという疑うべからざる公理があるからである。

 おそらく日本中で私一人が、団塊の世代のはしりであり、全共闘体験もある私一人が、差別は正しいと言っている。差別は正しい、差別と闘うのが正しいのと同じぐらい正しい、と。人類が目指すべきは「差別ある明るい社会」である。差別さえない暗黒社会にしてはならない、と。私は団塊の世代の一人として、時代に対する責任感から、そう言い続けてきたのである。全共闘の学生であった頃から、支那を「支那」と言い続け、差別と闘うのが正しいのと同じように差別は正しいと言い続けてきた。その意味では、私も非転向なのである。*3

差別は正しい、差別と闘うのが正しいのと同じぐらい正しい――このスタンスが人間賛歌でなくて何だろうか? 人間賛歌と書くと呉智英は嫌がるかもしれないが、しかし人間賛歌だと俺は思う。悪平等も、甘っちょろい人権思想も、善人の皮をかぶった民主主義も、この人間賛歌の前にあえなく敗退する。呉智英が初期の小林よしのり(おそらく『差別論スペシャル』あたりまでのゴーマニズム)のブレーンとして機能したのもよくわかる。

「障害者をめぐる明るい闇」について

差別について語った文章が他にもあるので、もう少し見ておこう。健常者と障害者の関係を論じた文章である。最初から最後まで面白かったのだが、特に河合香織『セックス ボランティア』という本の紹介を始めたあたりから、呉智英の真骨頂である、(極に振ったように見えて)本質を射抜いた刺激的な議論が展開されている。

 ところで、この本の「あとがき」に、こんな一節がある。

「性という本来は大変個人的な体験を話してくださった方々には、それだけ深い思いがあるのだろう」

 著者の河合香織は、ごく普通の謝辞のつもりでそう記すが、実はこの一節は重要である。性は本来大変個人的な体験である、と河合は当たり前のように(そして事実そう思えるのだが)述べている。しかし、この世に個人的でないことがあるだろうか。ある人が、遺伝により、あるいは幼少時期の病気罹患により、障害者になったことは、どう考えたって「個人的」である。交通事故によって障害者になった場合でさえ、交通政策の不備といった社会的要因はあったとしても、まさしく他ならぬその人が輪禍によって障害者になったという点においては「個人的」としか言いようがない。

 後のフェミニズムに至る女性解放運動の中で論じられてきた問題は、それが男女、恋愛、結婚、家庭、というそれこそ性に起因するものであるだけに、まさしく「個人的」な問題であった。それは政治や社会の問題ではない、個人的な問題じゃないか、という批判がフェミニズムに反対の立場の人から投げつけられたのも理由のないことではない。これに対し、フェミニズムの側は昂然と言い返した。「個人的なことは政治的であり、政治的なことは個人的なのだ」と。

 私はあるフェミニストからこの言葉を聞いた時、哲学的な感動を覚えた。そうだ、この世のすべての個人的なことは政治的なことだし、すべての政治的なことは個人的なことではないか。ここに、全然女にもてず、そのくせ百人も千人もの女にもてたいと悩んでいる男がいるとしよう。彼の個人的なこの苦しみは、もちろん政治的な苦しみである。なぜならば、彼が世界を征服し独裁的な皇帝になれば、百人だろうと千人だろうと、女を自由にすることができるからである。しかし、今我々が普通に考える「政治」は、これを政治的テーマとは考えない。あくまでも個人的な苦しみ、それもかなり特殊な苦しみと考える。良識はそう教える。もし、マジメな政治討論の場で俺が百人ほどの女を自由にできないのは政治が悪いからだと問題提起したら、袋叩きに遭って病院送りになるか、袋叩きに遭わないまま別の種類の病院に措置入院となるだろう。

 だが、よく考えれば、この冗談のような問題提起は、私が感じたように哲学的な問題なのである。しかし、現代市民社会の哲学は、個人的な問題と政治的な問題を峻別し、個人的な問題を文字通り個人的な問題に押し込める。これを政治的・社会的な場で語ることをタブーとする。だが、人間は、政治的なテーマを個人として悩み、個人的な要望を政治的に語ろうとする。有史以来、いや歴史の始まる前から、人間はそのようにしてきた。従って、皮肉なことに、言論も表現も自由であった昔は、このタブーはなかったのである。

そして呉智英は、この種のタブーが、障害者の理解ではなく、障害者を含む人間そのものの理解を妨げているとして、さらに様々なタブーに果敢に斬り込んで解説を加えていく。そしてこの文章は「タブーは、人間を盲目にし、社会を明るさという名の暗黒に塗りつぶそうとしている」という言葉で終わるのである。

……これ以上続けると、本書の全文を引用してしまうことになりかねないので、紹介はこのくらいにしておこう。本書は「封建主義者」「明るいサベツ主義者」「反動主義者」としての魅力が存分に発揮された傑作と言って良い。必読。

*1:全く覚えていないという人やそもそも知らないという人は「坂東眞砂子 子猫殺し」あたりのワードで検索してみてください。「子猫殺し」のコラムの全文については、ひとまずこちらを紹介しておく。

*2:強調は引用者による。

*3:強調は引用者による。