呉智英『犬儒派だもの』

犬儒派だもの (双葉文庫)

犬儒派だもの (双葉文庫)

色々なところで発表した文章をまとめた本だが、相変わらず面白い。
例えば、呉智英が繰り返し主張することに「支那(しな)」という言葉がある。支那は中国の蔑称だとして、使用がタブー視されている。俺のPCでも変換されない。しかし呉智英は一貫して使い続けている。なぜか?
呉智英は言う。

 多くの人が誤解しているが、「支那」は差別語だから禁止されたわけでもなく、侵略戦争に関係するから禁止されてきたわけでもない。もし、これが差別語なら、「東シナ海」や「インドシナ諸島」はなぜ許されているのか。侵略戦争とも無関係な証拠に、支那を一九九七年まで侵略していたイギリスの言葉でも、一九九九年まで侵略していたポルトガルの言葉でも、シナ近似音で呼んでいる。
 これが禁止されたのは一九四六年六月の外務省次官・局長通達によるものである。「理屈抜きにして」「使はぬやうに」とある恐るべき通達に、全マスコミが今なお拘束され、拘束されていること自体に気づいていない。
 興味深いことに、支那のインターネット新浪網公司には、欧米人にチャイナを認めながら日本人に支那を禁圧するのは差別ではないか、との声が出るようになった(東京新聞00・9・22)。ネットが禁圧にほころびを作った。グローバリゼーションの開放的な側面である〔というわけで、私のこの連載は「支那」で通します〕。

さらに言うと、そもそも「中国(中華人民共和国)」という言葉は、世界の中心にある最も華やかな文明社会の国といった意味だそうだ。
つまり、差別語でも何でもない「支那」の禁止を強制し、呉智英が言うところの「支那人による他民族蔑視語」である「中国」を当然のように使わせること、これこそが差別ではないだろうか――と、呉智英は言っているのである。
「支那」とか言っちゃってるから勘違いされそうだが、もちろん呉智英は国粋主義者ではない。単に、論理(ロゴス)で考えて筋道の通らないことに対して盲目的に従うことの危険性を熟知しており、また心情的にも我慢がならない、ということなのだと思う。この生き方、一言で書けば「偏屈」になってしまうのだろうが、俺はこの生き方を貫き通している呉智英を尊敬するのである。