『NATIONAL GEOGRAPHIC (ナショナル ジオグラフィック) 日本版』2009年9月号

NATIONAL GEOGRAPHIC (ナショナル ジオグラフィック) 日本版 2009年 09月号 [雑誌]

NATIONAL GEOGRAPHIC (ナショナル ジオグラフィック) 日本版 2009年 09月号 [雑誌]

質の高い写真やドキュメンタリー記事によって地球の素顔を伝えるビジュアルマガジン。写真も記事も極めて質が高く、「買う」に値する数少ない雑誌のひとつ。
今月号も安定して面白い。特に「ラン 甘美なる愛の罠」は良かった。この記事によると、ランという花の成功の秘密を一言で表現すると「騙し」ということになるそうだ。ランという花は、ラン科全体での3分の2ほどの種は、昆虫や鳥といった送粉者に花蜜を与え、その見返りに花粉を与えてもらうという「ありきたり」の手段を採用する。しかし残りの3分の1は、花蜜を分泌せず、送粉者の視覚や嗅覚・触覚に訴える「騙しのテクニック」を駆使して受粉しているそうだ。長くなるが、いくつか引用したい。

 ランの送粉戦略はあまりに奇抜で複雑なため、進化論者たちは厄介な疑問をいくつも抱えることになる。必要以上に複雑な要素は消えていくというのが自然選択の原則のはずだが、なぜランはこんなに回りくどい送粉方法を続けているのだろうか? 送粉者に蜜を与えて、その代わりに花粉を運んでもらうという単純な方法を選ばなかったのはなぜか? そもそも、なぜ偽交尾という凝った方法をここまで発達させたのだろうか? そして騙される側の送粉者にはどんな恩恵があるというのか? ニセモノの雌を本物と思い込んで、必死に交尾をしようとする愚かなハチこそ、自然選択によって絶滅しても不思議ではないように思える。
 植物学者と進化生物論者たちは、これらの疑問に興味深い答えを用意してくれている。進化生物学者で、アリゾナ州立大学名誉教授のジョン・オルコックは、一部のランが花蜜をご褒美として与えるという単純な戦略を避けた理由が二つあると考えている。彼は、植物学者たちが行ったある実験に注目した。花蜜を分泌しない種類のランに、人為的に蜜を付けてみたのだ。そうしたところ、花粉を媒介するハチは、蜜が付いたランにとどまる時間が長くなり、同じ個体の別の花や近くにある個体にせっせと花粉を付けていった。これでは近親交配になってしまい、良質な種子はできない。離れた場所の個体と遺伝子を掛け合わせる異系交配が行われることで、活力豊かで変化に富んだ子孫が生まれ、生育環境に対する適応能力が高められるのだ。
 つまり、色仕掛けに惑わされたハチの欲求不満こそが、ランの繁殖戦略に不可欠な要素と言える。騙されたと悟ったハチは、二度と同じ過ちを繰り返すまいと、離れた場所へ飛んでいくが、そこで、またしても別のランの罠に掛かり、交尾を試みることになるのだ。すると、背負ってきた花粉塊がその花に付いて送粉成功となる。同種のランでも、場所が離れていると外見や匂いがわずかながら異なると考えられている。実は、そのかすかな違いも、ハチに過ちを繰り返させるための戦略ではないかと指摘する研究者もいる。
 ハチを誘引するのに、多くのランが花蜜を使わないもう一つの理由は、不特定多数のハチではなく、献身的な1匹との関係を強化した方が、利があるのを心得ているからだ。花蜜の分泌は代謝面で負担が大きい上に、送粉に関係ない動物までおびき寄せてしまう。もし、特定の種類のハチ、それも雄だけを引き付ける匂いを発するようになれば、遠く離れた場所に咲く同種のランに花粉を確実に届けてもらうことができるのだ。

ランに射精するハチ
 コリアンテスの場合、ランとシタバチが恩恵を受けるが、オーストラリアに分布するクリプトスティリス属の場合は違う。送粉者であるツチバチの一種が、一方的に恥をかかされることになるのだ。クリプトスティリス属の3種のランは、「ランに騙されるハチ」と呼ばれるツチバチ科の雌が出すフェロモンそっくりの匂いを発する。その匂いに誘われた雄は、舌に似た形状の唇弁に舞い降りて、交尾器を挿入して交尾を始めるが、その際、雌の交尾器を探しているうちに、粘着性のある花粉塊を強く押す。こうして雄の尻には、花粉塊が付くことになる。
 花粉塊を付けられるだけなら、ハチの面目もまだ保たれるだろう。しかし、この偽交尾でランに射精する雄が多いとなると、そうもいかない。これぞ、精神医学で言うところの“不適応行動”の最たるものだ。花と交尾して、精子を浪費する愚かなハチなど、自然選択によって駆逐されてもおかしくないのだろうか? そんなハチが存続するのは、ハチ自身はもちろん、花にとっても不幸だろう……。ところが、話はそれほど単純ではない。
 クリプトスティリス属と交尾するツチバチの場合、実を言うと、雌は精子がなくても子孫を増やせる。もっとも、精子がある時は、生まれてくる子の対比はほぼ半々だが、精子がない時は、生まれてくるのは雄だけだ。これはランにとって実に都合がよい。つまり、クリプトスティリス属のランは、ツチバチの雄に花と交尾させることによって、雌に精子を与えず、その結果、花粉を運んでくれる雄の割合を増やしているのだ。それだけではない。雄の数が多くなり過ぎると、雌を巡る競争が激化し、交尾相手が見つからず自暴自棄になった雄は、ランの罠に掛かりやすくなるのだ。
 では、この情けないツチバチは、なぜ自然選択によって消えることはないのか? この疑問に対しては、進化生物学者であるジョン・オルコックの説明が最も納得できる。オルコックの言葉を借りれば、このハチは“究極のセックス狂”なのだ。見当違いの相手に遺伝子を浪費することがあったとしても、交尾相手を慎重に見極めるより、選り好みせずにとにかく交尾する方が繁殖戦略としては優れているという。

どことなくユーモアがあり、しかもランの戦略が手に取るようにわかるレポートで、実に読ませる。それにレポートを無視して写真だけ眺めてみても、相変わらず圧倒的なクオリティである。毎度のことながら、文句のつけようがない雑誌だ。