インキュベ日記

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インキュベ日記ベストセレクション2009

1年間の振り返りとして、2009年に読んだ本の中から特に印象深かったものを取り上げてみたい。といっても本来は今年の正月にアップする予定だったのだが、忙しくて完全に怠けていた。もう8月なのに「ベストセレクション2009」もないだろうという話だが、そこはそれ、所詮は個人ブログの余興なのだから、気にしないでください。
しかし2009年は精神的にも体力的にも本当に余裕がなかったので、どうも「これ!」という本が少なかった。面白い本自体はいっぱいあったのだが、読んだときの感動がイマイチ思い出せず、結果的に「安定株」になった。疲れ過ぎていたんだろうな。もう少し余裕を持つ努力をしないとね。*1
1Q84 BOOK 1 1Q84 BOOK 2 ティファニーで朝食を ティファニーで朝食を (新潮文庫) ロシア・ショック 「知の衰退」からいかに脱出するか? タフの方舟1 禍つ星 ハヤカワ文庫SF タフの方舟 2天の果実 (ハヤカワ文庫SF) 残像に口紅を (中公文庫) 家族八景 (新潮文庫)
七瀬ふたたび (新潮文庫) エディプスの恋人 (新潮文庫) スターガール ラブ、スター・ガール 戦略プロフェッショナル―シェア逆転の企業変革ドラマ (日経ビジネス人文庫) 経営パワーの危機―会社再建の企業変革ドラマ (日経ビジネス人文庫) V字回復の経営―2年で会社を変えられますか (日経ビジネス人文庫) 戦略フレームワークの思考法 公共空間としてのコンビニ 進化するシステム24時間365日 (朝日選書) 健全なる精神

村上春樹『1Q84 BOOK 1』『1Q84 BOOK 2』

「ベタ」と言われたら「そうですね」としか言いようがないわけだが、何だかんだで、2009年に読んだ本の中で最も面白かったのは『1Q84』だった。詳細は各エントリーに譲るが、これらを読みながら思ったのは、文体が良くも悪くも「村上春樹的」でなくなり、プレーンな感じになっていることである。

トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』

村上春樹と言えば、最近はせっせと「名著」を翻訳しているが、本書もその流れに位置づけられる。

大前研一『ロシア・ショック』『「知の衰退」からいかに脱出するか?』

大前研一の本は、何だかんだで手に取ってしまうことも多いのだが、この2冊はかなり面白く、かつ考えさせられた。したり顔で「大前研一はもう終わっている」などと言う暇があったら、この人の圧倒的な知的好奇心と知的生産性に敬意を払うべきだろう。

ジョージ・R・R・マーティン『タフの方舟1 禍つ星』『タフの方舟2 天の果実』

めちゃくちゃ面白いSF本。何度読み返しても飽きることがない。これも極私的2009年MVP候補。

筒井康隆『残像に口紅を』『家族八景』『七瀬ふたたび』『エディプスの恋人』

筒井康隆の超絶実験小説と、名作の誉れ高い「七瀬三部作」を。
俺は筒井康隆については『残像に口紅を』と『文学部唯野教授』くらいしか読んでいなかったが、どちらも物凄くハマっていた――という話を友人にしていたところ、彼は筒井康隆に最近どっぷりハマっていたので、七瀬三部作を貸してくれた次第。うーん、こんなに面白い本を読んでいなかったなんて、人生の損失だね。



ジェリー・スピネッリ『スターガール』『ラブ、スターガール』

エキセントリックな人間の魅力と、エキセントリックな人間を排除しようとするアメリカの「世間」を描いた小説――こう書くと小難しい感じもするが、決してそんなことはない。肩の力を抜いて読む本である。しかしアメリカにも、日本のような「世間」があったんだな。

三枝匡『戦略プロフェッショナル』『経営パワーの危機』『V字回復の経営』

三枝匡のビジネス小説。
生々しい!


手塚貞治『戦略フレームワークの思考法』

今回はビジネス書をあまり取り上げていないが、これは面白かった。ここ数年、雨後の筍のごとくフレームワーク本が出ているが、その中でも、これは最も役立つ本のひとつである。

鷲巣力『公共空間としてのコンビニ』

いわゆる「名著」として有名になった本では全然ないが、個人的には「日本企業の方向性」を見せつけられたような衝撃を受けた。面白い本なので、ぜひ。

呉智英『健全なる精神』

自分のモノの見方に多大な影響を与えた本。詳しくは当時の感想に譲るとして(下にリンク張ってます)、特に感銘を受けた箇所のみ再度引用。

 民主主義は少数者の立場を尊重する思想である、という人がいる。いや、新聞でも書物でもしばしばそのように説かれる。
 だが、そんなバカなことがあろうか。民主主義は多数者の立場を少数者に押しつける思想に決まっているではないか。フランス革命は、王侯貴族など少数者を打倒した多数者民衆の運動であった。少数者の立場を尊重したら、反民主主義的な王制はそのまま続いていた。アメリカ独立革命も、多数者の立場を少数者に押しつけるものであったからこそ、その後の少数者黒人を奴隷にする制度が保障されたのである。
 少しまともに考えればわかることだ。健全なる精神を働かせてみればわかることだ。時代の歪み、社会の歪みは、自然に見えてくる。腐った常識、病んだ良識に挑むもの、それが健全なる精神である。

 (坂東眞砂子のいわゆる「子猫殺し」の日経新聞のコラムを受けて)私は、子猫殺しに賛成しない。私なら、避妊手術を施すだろう。しかし、子猫を殺した坂東眞砂子の選択をまちがっているとも思わない。坂東の文章をちゃんと読めば(別段難解な文章でもないし)、十分に説得力を感じる。新聞のコラムやエッセイには、なまぬるい言葉で良識をなぞっただけのものが多いのだが、坂東のコラムは緊張感ある言葉で読者に内省を促してさえいる。
 しかし、この「子猫殺し」には大反撥が起きた。日経新聞に対し、抗議の電話やEメールなどが直後の六日間だけで八百件も寄せられ、他紙は大事件でもあるかのように大きな記事にした。
 坂東眞砂子は言う。「愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ」と。その通りだ。人間の動物への関わりは、いずれも人間の都合なのである。
 希少動物の保護だって、その動物に限って貴重だと人間が判断しただけである。私は、希少動物保護派である。希少動物を保護することによって周辺の原住民の生活が多少圧迫されたって、断乎たる保護策を採るべきだと思っている。しかし、それでも、希少動物保護は人間の都合・判断によるものだとの認識はゆるがない。
 肉や毛皮や羽毛や乳や卵を利用する家畜は、言うまでもない。何千年に亙(わた)る品種改良は、自然状態では生きてゆけない一種の畸形まで作り出した。乳牛は、人間によって人為的に搾乳しないと、乳腺炎になって死んでしまう。噴火や地震などの災害が起きた村で、人間が避難した後に放置された乳牛は、多くは餓死ではなく乳腺炎によって死ぬ。
 鑑賞動物・愛玩動物も、同じである。その愛情は、人間の勝手な都合なのだ。夏の風物詩、金魚が、ゆらゆらひらひら美しく泳ぐのは、畸形化された体と鰭(ひれ)のため、そのようにしか泳げないためである。むろん、このような泳ぎ方では、自然状態では生きてゆけない。飛び出した目が可愛い出目金は、視力が高いどころか、著しく視力が低下している。泳ぐに適さない鰭を持ち、ほとんど見えない目を持つ金魚を、浴衣がけの家族連れやカップルは、金魚すくいと称して笑いながら虐待するのだ。
 それで一向にかまわないではないか。*2
 私は動物好きである。とりわけ犬は何度も飼った。愛犬が死んだ時は、ほとんど慟哭した。それでも、やはり、人間の都合だと思う。犬だけではなく、変わった動物ではカンガルーを飼ったこともある。最近は、住居の制約から飼えるのは残念ながら意馬と心猿くらいだが、いつかまた犬を飼ってみたいと思っている。そして、廃鶏で作られたドッグフードをやって、愛犬が喜ぶさまを目を細めて眺めたいと思う。

 今なお猖獗(しょうけつ)やまぬ差別狩りも、全共闘時代に始まったものである。私が「差別狩り」と言うのは、単なる「差別語狩り」に止まらない、その基底部にある差別そのものを社会から抹殺しようと言う風潮を懐疑したいからである。
 (略)差別はイケナイという公理を疑う者は、地を払ったように誰もいない。数年前テレビの討論番組で、なぜ人を殺してはいけないのかと問うた学生はちょっとした知的英雄になったが、なぜ差別をしてはいけないのかと問うたら、そうはならなかったろう。現代では、差別は殺人より数等劣る悪行なのである。差別はイケナイという公理を疑い、差別は正しいなんてことは、誰も口にしない。差別語狩りが不当だと多くの人が思っているのに、それでも差別語狩りが止まないのは、その根底に差別はイケナイという疑うべからざる公理があるからである。
 おそらく日本中で私一人が、団塊の世代のはしりであり、全共闘体験もある私一人が、差別は正しいと言っている。差別は正しい、差別と闘うのが正しいのと同じぐらい正しい、と。人類が目指すべきは「差別ある明るい社会」である。差別さえない暗黒社会にしてはならない、と。私は団塊の世代の一人として、時代に対する責任感から、そう言い続けてきたのである。全共闘の学生であった頃から、支那を「支那」と言い続け、差別と闘うのが正しいのと同じように差別は正しいと言い続けてきた。その意味では、私も非転向なのである。

 後のフェミニズムに至る女性解放運動の中で論じられてきた問題は、それが男女、恋愛、結婚、家庭、というそれこそ性に起因するものであるだけに、まさしく「個人的」な問題であった。それは政治や社会の問題ではない、個人的な問題じゃないか、という批判がフェミニズムに反対の立場の人から投げつけられたのも理由のないことではない。これに対し、フェミニズムの側は昂然と言い返した。「個人的なことは政治的であり、政治的なことは個人的なのだ」と。
 私はあるフェミニストからこの言葉を聞いた時、哲学的な感動を覚えた。そうだ、この世のすべての個人的なことは政治的なことだし、すべての政治的なことは個人的なことではないか。

余談

このブログの前身となるHPを立ち上げたのは、1999年5月1日である。当時は暇つぶしにHPを立ち上げてみただけで、特にやりたいこともなかったから、とりあえずバイトのエピソードやオンラインゲームのプレイ日記を書いていた。しかし2000年8月1日に、以下のようなルールを自分に課して読書記録のコンテンツを立ち上げた。

  • 1ヶ月に10冊の本を読む
  • 1000冊の本を読む
  • 通読した本は短くても拙くても良いから感想を書き、記録に残す

1ヶ月に10冊読むという目標は守れる月と守れない月があったが、1000冊読むという目標はとうの昔に達成された。今は仕事も忙しくなったので「1ヶ月に10冊」という目標は意識していないが、積み上げた本の数には密かに誇りを持ちながらブログの運営を続けている。
気がつけば、今日は2010年8月1日。
昨日で、読書記録を書き始めて丸十年を迎えた。
今日から新しい10年が始まる。
俺のプライベートは0.1%も書かれない変わったブログだが、「インプットの履歴こそ俺そのものである!」と思いながら、これからも粛々と続けていきたい。

*1:努力して余裕を持つというのは既に論理矛盾ではないか、という声も聞こえてきそうだけど……。

*2:太字とフォントサイズの変更は引用者による。