沢木耕太郎『一瞬の夏(上)』

一瞬の夏 (上) (新潮文庫)

一瞬の夏 (上) (新潮文庫)

一瞬の夏 (上) (新潮文庫) 一瞬の夏 (下) (新潮文庫) 敗れざる者たち (文春文庫)
『深夜特急』『敗れざる者たち』『テロルの決算』などで有名なノンフィクション作家によるスポーツノンフィクション。元々は佐藤郁哉『組織と経営について知るための実践フィールドワーク入門』で紹介されていたことから手に取り、その後幾度となく再読してきたものの、その文庫本は誰かに貸したまま戻ってきていない。最近、電子書籍で購入したこともあり、またぞろ再読した次第。

著者はスポーツノンフィクションの記事で致命的かつ根源的な失態を犯し、しばらく仕事からも日本からも逃げ出してアメリカに行こうとしていたが、その直前に、著者は「カシアス内藤」という黒人との混血ボクサーが4年半ぶりにカムバックするという話を耳にする。
カシアス内藤とはカシアス・クレイ(言うまでもなくモハメド・アリである)にあやかってつけられたリングネームで、本名は内藤純一。黒人の血が半分入っているが、日本生まれ、日本育ちである。彼は天才的なアウトボクサーだったが、一方では練習嫌い&節制嫌いであった。1メートルだって走りはしなかったし、コーラの飲み過ぎで計量にパスできなかったこともある。練習はリミットまで体重を落とすためだけに行われた。それでも日本ミドル級と東洋ミドル級のベルトを巻くほどには天才だったが、気が弱く精神的に脆い面があり、韓国の柳済斗に初黒星を喫して以降は精彩を欠いた試合を続けるようになる。かませ犬としての試合も増え、後の世界王者である工藤政志に負けた後はボクシングの表舞台から完全に姿を消す。
その間カシアス内藤は夜の世界で生計を立てていたが、それなりに高給取りだったようだ。しかし、それでもなおカシアス内藤には満たされないものがあり、どうしようもなくボクシングから気持ちが離れられない。そして20代半ばから29歳直前というボクサーとして最も脂の乗った4年半を棒に振った挙げ句、彼は復帰を決意する。あれほど練習嫌いだったカシアス内藤は、毎朝毎晩きちんと走り込んで体を作り始める。そのような時期に著者はカシアス内藤と再会する。
ここで「再会」と書いたのは、カシアス内藤と著者は以前にも一度会ったことがあるからである。いや、「会った」という言葉では軽すぎるかもしれない。著者は、知的で圧倒的ボクシングセンスもあるが、言い訳ばかりで練習も節制もせず、かませ犬扱いに滑り落ちた当時のカシアス内藤を取材したカシアス内藤と「文字通り」行動を共にした。そして自分の仕事もそっちのけでカシアス内藤が本気で燃え尽きることができる場面を用意しようとしたし、それを見届けようとした。そしてついに本気になれなかった男の悲哀を描いた「クレイになれなかった男」という文章を発表しているのである(『敗れざる者たち』所収)。

そのような密度の濃い時間を過ごし、カシアス内藤のことをよく知っている著者は、カシアス内藤が本当に本気でカムバックしようとしているのか疑問に思う。しかし彼は以前からは考えられないほど熱心に練習している。また言い訳がましさが消えて、深みが出てきた。どうやら本気らしい……しかしなぜ「復帰」なのか。4年半というブランクはボクサーにとっては致命的である。しかも20代半ばから29歳直前というボクサーとして最も脂の乗った時期を棒に振り、体力や反射神経が下り坂に差し掛かる30歳を前にしての復帰だ。アメリカに逃げるつもりだった著者は、どうしてもカシアス内藤をもう一度追いかけたくなる……と、このようなプロローグだろうか。
上巻では、著者が何だかんだとカシアス内藤を追いかけ、復帰戦を勝利で飾るところまでが描かれるのだが、ついつい長くプロローグを書いてしまった。しかし、そうさせる「熱」が本書にはある。