いがらしみきお『ぼのぼの』31〜36巻

ぼのぼの コミック 1-38巻セット (バンブーコミックス)

ぼのぼの コミック 1-38巻セット (バンブーコミックス)

奇才・いがらしみきおによる、森に住む動物たちを描いた四コマ漫画。

Wikipedia曰く「不条理ギャグと哲学とほのぼのが融合した、独特の作風」とのことだが、言い得て妙である。タイトルであり主人公(ラッコ)の名前でもある「ぼのぼの」は当然「ほのぼの」から来ているが、単なる「ほのぼの」だけでない深みがある。

さて、何となく変わらない世界だと思ってきた「ぼのぼのワールド」だが、思い返すと、じわじわと変化はあった。例えばフェネギー(フェネックギツネくん)の両親が別の場所に引っ越しをするとか、(森を離れて)山で一人暮らしをしていたヒグマの大将が再び森に戻ってくるとか、シャチの長老が老衰でなくなるとか。いやそもそもメインキャラクターであるぼのぼのだって当初はもっと内省的なキャラクターで今のように喜怒哀楽を前面に押し出したりすることは少なかったし、アライグマだって殴ってばかりではなくなった。

最も顕著に変化しているのはシマリスであろう。そもそもシマリスは、ぼのぼの・アライグマ・シマリスの三人組の友達として1巻からメインキャラクター扱いではあったものの、当初はほとんど「いぢめる?」しか言わないキャラクターだった。いま思えば、本当の(人間で言うとせいぜい小学校低学年レベルの)子供だったのだろう。私もシマリスのエピソードよりは、スナドリネコとのエピソードを好んだものである(何せ「いぢめる?」しか言わないんだもの)。しかしいつの間にかシマリスは「いぢめる?」の口癖を言わなくなった代わりに「〜なのでぃす」の口癖と共に誰よりも雄弁に喋るようになり、一人暮らしを始めた。二人いる姉も独立したばかりか一人は結婚して子供を産んだ。そして父と母が老いた。少しずつ老いの描写はあったものの、30巻を超えたあたりから読者的にも凄く気になるようになった。父と母は満足に出歩くこともできなくなった。その父と母を、シマリスは毎日のように世話をしながら、自分の暮らしも成立させている。

なお、ぼのぼののお父さんとアライグマのお父さんには、今のところ激しい老いは見られない。正確に言うと、それを想起させる描写がないわけではないのだが、少なくとも見た目は変わらない。一方、シマリスの父と母の顔には、いつの頃からか深い皺が顔全体に刻まれるようになった。これは、シマリスという寿命の短い小動物と、ラッコ(ぼのぼの)やアライグマという比較的寿命の長い中型の動物の差かもしれないなぁと思うのだが、いずれにせよ、気がつくとシマリスは大人になっていた。生活に忙殺され介護に翻弄される大人でありながらも、未だ子供であるぼのぼのやアライグマとも友達として毎日普通に遊んでいる、森の中でも特異な存在になっていたのである。

そして36巻。ぼのぼの史上、私が最も泣いたエピソードである「シマリスくんのクノーの巻」が載っている。クノーとは当然「苦悩」のことだ。あえて片仮名で「クノー」と記載するところが凄い。

シマリスくんのクノーの巻

シマリスの両親は老いて久しいが、このエピソードでは母が更に病気で倒れてしまった。咳が酷い時には父も母も一睡もできない。そんな母と一緒に暮らす父も疲れ果て、昼間から二人とも寝て過ごしている。そしてシマリスは毎日両親の看病に行っているのだが、老いた両親の看病・介護とは極論すれば「死」という戻れない結末へ至る道を整備する行為であり、決して楽しいものではないだろう。そんな時は自分の行動も裏目に出やすい。シマリスも、両親の気が華やぐようにと明るく振る舞うと嫌味を言われ、両親の大好物を食べてもらおうと頑張ると「遅い」と言われる。介護に楽しさを求めるのは無理だと諦めてしまった。

もちろん、そんな中でも献身的な介護は続けるのだが、そこでシマリスはクノーするのである。数年前まで、我々はあんなに幸せだった。姉が結婚し、子供が生まれ、家族みんなで喜び合った日々。父と母もあんなに嬉しそうだった。それがたった数年で、家族はここまで変化してしまった。なぜ、みんな変わってしまうのか? そしてなぜ、こんなに急激に変わってしまうのか? もっと緩やかな変化で良いのではないかと……。

みんな変わってしまうこと。

シマリスは変化そのものにクノーしているのだ。『ぼのぼの』らしい、極めて根源的な苦悩であり、問いであると言えよう。シマリスは、もちろん父と母が良くなることが一番いいと思っている。しかし変化には抗えない。「こうすればいいことがあってもそのとおりはできないので その代わりのことをやってマシにしているだけです」「少しマシになりそうなことをやりつづけるしかないのでしょう」とシマリスは語るが、これは哀しく、また辛いことである。さらに老いから来る看病は、頑張っても治ることがない。頑張っても頑張っても、病気が良くなるという変化をもたらすことができず、シマリスは「変わってしまうこと」だけでなく、「変わらないこと」もクノーという、両義的な状況に立たされている。

しかし一方、ぼのぼのは、まだ父親もそこまで老いていない。そして子供である。だからシマリスのクノーが十分に理解できない。いがらしみきおはお互いの認識や会話の「ズレ」を笑いに変えるのが得意技であり、このエピソードでもシマリスとぼのぼのの「ズレ」を楽しむ笑いが頻出するが、この笑いはなかなかに哀しい。しかしシマリスは、そんな(天然なのか気を使っているのかよくわからない)ぼのぼのと話すことで、少し気持ちが楽になる。

それでもシマリスは、考えざるを得ない。クノーの理由が「変わってしまうから」なのか「変わらないから」なのかはもはやどうでも良く、そもそもいつまでこんなことをやらなければならないのかと。シマリスは父と母の「老い」と「病」と「死」を目の前にして、とにかく追い込まれてしまっているのだ。

そんな中、ぼのぼのと別れたシマリスは、まだ何とか出歩ける父と花見に出かけることになる。そして父は言う。「おかあさんも連れてくればよかったよ」「来年も見られるかどうかわからないし」

その後の、シマリスとシマリスのお父さんの数ページに渡る会話は、もうとにかく涙なしには読めない。ネタバレをしないために(というか文字ではなく漫画で読んでもらいたいため)ここでは書かないが、これは単なるお涙頂戴の可哀想な話では決してない。死と別れの本質を抉った、残酷で、しかしだからこそ救いのあるエピソードである。

その後、ぼのぼのと会ったシマリスは言う。「少し気持ちが楽になりました」と。ぼのぼのも深くは聞かず、「ほんと? よかったね」と答え、一緒にシマリスのおかあさんのための薬草を乾かす手伝いをするのだ。その描写は、いつも通り淡々としていながら余韻があり、私は涙が静かに流れるのを止めることができない。

これは10代や20代前半では理解できなかったエピソードかも。

人生の深淵を知るのに「人生経験」が必要なのだとしたら、加齢も必ずしも悪いことばかりではない。