大塚英志『物語消費論改』

物語消費論改 (アスキー新書)

物語消費論改 (アスキー新書)

かつて著者は『物語消費論』という本を書いていたが、これはビックリマンチョコ云々といった現象を分析した「ネット以前」の評論である。つまり素材としても視点としても圧倒的に古びたという自覚を著者は持っているため、それらをバージョンアップして全面的にリライトしたのが本書である。後半では「物語消費論」の一部の再録もあり、お得感はある。

しかし、大塚英志の文章は相変わらずわかりづらいな。言葉自体は容易だし、大したことを言っていないことも多いのだが、この人ならではの言い回しや定義がある。例えば本書の序文から少し引用してみたい。まずは序文の冒頭。

 最初に明確にしておくなら、本書はぼくの一九八〇年代における論考「物語消費論」を「web以降」の文脈の中で検証し、清算するために書かれる。

ここまでは良い。私が先ほど説明したとおりである。しかし数行後から早くも、いつもの大塚節が顔を出し始める。

 物語消費論としてその時示した手法は、今にして思えばあまりに一九二〇年代的であった。
 しかし「一九八〇年代的」ではなく「一九二〇年代的」であるということは、案外と本質的な問題だ。
「一九二〇年代的」ということは「モンタージュ的」ということだ。

1980年代が1920年代的だという、わかるようでわからない形容。そしてモンタージュ的という謎の形容。早くも2ページ目で投げ出したくなる。一応モンタージュ的ということが何を意味するかの説明はされるのだが、その説明がまた大塚節なので、もう引用するのは止めておく。詩人だね。

もちろん、わざわざ買っているからには、この人のキラリと光る視点には面白いところも多いんだけどね。例えば以下。これまた序文の最初の方。

興味深いことに「書く」欲望と「発信する」欲望は実は一体ではなく、後者のみが単独で行使されることも明らかになった。もはや作者ではなく情報発信者になりたい欲望の方が優位であるのは、動画投稿サイトに自分の作品ではなく既存の映像作品を投稿することに熱心な者が少なくないことでも明らかだ。違法動画の投稿者もまた「発信者」として評価され、充足する仕組みが動画投稿サイトには用意されている。

さらに言うなら、私は、togetterやNaver、その他2ちゃんねる等のまとめサイトを例として挙げたい。彼らの肥大した承認欲求を満たすためには、もはやオリジナルの情報や意見である必要は全然ない。むしろ「情報編集力」という耳障りの良い言葉にオブラートされた「パクり能力」の方が必要なのではないかとすら思える。

最近では、まとめサイトでまとめられた内容を別のまとめサイトがパクるなどというメタ行為(マッチポンプとも言う)や、5〜6年も前の他人の記事を皆が忘れた頃に「あたかも新しい事実であるかのように」パクるなどという茶番行為(ほぼ必ずブコメで指摘されて炎上するが、それ故に注目されて発信者の承認欲求とアフィリエイト欲求が満たされるので、炎上商法とも言う)もちょくちょく見かけるようになった。私は最近、これを勝手に「承認欲求のエコシステム」と名付けて面白がっていたのだが、大塚英志は私より数年も前から注目していたようだ。

……という具合に、まだ序文のごく最初の部分しか取り上げていないのに、良いところ・悪いところ含め「ツッコミどころ」が多い。色々な楽しみ方ができるという点では、お金を払う価値が高い本かもしれない。