桜井淳+石川良子編『ライフストーリー研究に何ができるか』

ライフストーリー研究に何ができるか

ライフストーリー研究に何ができるか

人文系の専門書。

本書の内容に入る前に、まず「ライフヒストリー」という言葉を説明せねばなるまい。ライフヒストリーは「生活史」や「個人史」とも呼ばれるが、ある人(被調査者)の人生をじっくりと聞き書きし、その記録を基に何かを明らかにしようとする調査方法のひとつである。人生と書いたが、それは一生という長いスパンの場合もあるし、特定の経験や体験といった短いスパンの場合もある。しかしいずれにせよ、被調査者からじっくりと話を聞き取ることが重要になる。なぜならライフヒストリーが重要視するのは、被調査者の「語り」であるからだ。そして本書の書名にもある「ライフストーリー」とは、1980年代からライフヒストリー研究を牽引してきた桜井淳が、ライフヒストリーを批判的に継承・発展させてきた方法論的立場を指す。

以下、両者の違いをざっくり説明した箇所を引用してみたい。*1

 大掴みに言えば、ライフヒストリー研究は“何を語ったのか”に重点を置き、過去に起きたことの再構成に関心を寄せる。一方、ライフストーリー研究は“いかに語ったのか”や“何のために語るのか”に問いをシフトさせ(略)た。

さらに、ライフストーリー研究の基本的枠組みを、もう少し引用しておこう。

(略)ライフストーリーは過去の出来事の単なる表象ではなく、語り手と聞き手との対話の産物である。こうした認識は、テープ起こしや語りの提示の仕方に端的にあらわれる。語り手の語ったことだけでなく聞き手の質問や相槌も書き起こし、論文などで引用するときに会話形式のまま提示するのは、語り手のみならず聞き手もまた現実構築に関与していると考えるからにほかならない。

 ライフストーリーには、誰が、いつ、どこで、何を、なぜ、どのようにといった出来事や行為の展開過程を語っている部分と、それらを振り返って現在の心境などを語っている部分とがある。桜井はこれらをそれぞれ〈物語世界〉と〈ストーリー領域〉と呼んで区別した。(略)これまでのライフヒストリー研究では〈物語世界〉だけが注目され、〈ストーリー領域〉はインタビュー・データとは無関係なものとして扱われてきた。しかし、両者はひとつの言語行為なのであって、切り離しては考えられない。

私なりに(かなり)乱暴にまとめると、単に事実関係のインタビューをするのではなく、その言葉が語られた背景や語り口、調査者・被調査者の関係などにこれまで以上に着目しながら聞き書きをしていくという姿勢を指してライフストーリーと呼ぶ。そして本書は、このライフストーリーという方法論について詳述した本である。方法論についての専門書というのは正直なかなかマニアックで、この手の本に全く興味のない方もいるだろう。しかし方法論にこだわることで(あるいはこだわらないことで)、見えてくる世界がけっこう違ってくるのも事実である。

例えば本書では、上記で引用したようなライフストーリーの特徴を指して、ライフストーリーとは語り手と聞き手(インタビュアー)との相互行為による「共同制作」「共同作品」であると強調されているが、ライフストーリーの方法論的な面白さを示したエピソードとして、以下のような話が紹介されている。

 戦争経験の継承について九〇歳を超える高齢男性にインタビューしたときのことである。日中戦争時代の一九四〇年から四一年にかけて兵士として中国へ派遣され、彼は中国での新四軍や八路群などとの戦争をはじめとする兵士経験を細かく語ってくれた。戦後の生活や訪中体験なども含めライフヒストリー全体が語られたあとで、彼が戦争経験をどのように伝えているかを尋ねた。しかし、十分な返答はなかった。若い世代にしゃべったりしていませんか、と問うと「あんまり(していない)」。子どもたちに戦争を伝えるときにはどのように、と問うと「ふふ、むずかしいですね」、と問いは空回りをするだけだった。自分の経験を、現在、どのように評価し、なにを次世代に伝えようとしているかという問いかけは、結局、一時間半におよぶこのときのインタビューにおいて、私の苛立ちをつのらせ、ほとんど彼の語りの意味を解釈できないままに終わった。


 そして、一ヵ月も経たないうちに、私のゼミの学生がほぼ同じ主旨でインタビューをお願いしたところ、再び快く引き受けていただいた。学生が一通りの戦争体験の語りを効いた後で、「戦争でどういう経験をされたとか、そういうのはたくさん聞かせていただいたんですけど、それに対してどう思ったかみたいなところが(中略)聞けなかったので」と、語り手の思いを問うた。「まぁ国の至上命令だからね。嫌だと言ったらたいへんですよ」と応えて、彼は仕方がなかったというニュアンスで応えた。ところが、そのすぐあとに語り手は学生に一冊の本を推薦している。その本は大東亜戦争肯定論の立場で「新自由主義史観」と類似の見方を示したものである。「ちょっと過激なあれもありますけど」といくらか懸念もあるようだが、「わたしら、やっぱりそうだな」と語って賛意を示している。学生にはそれ以前の語りの中で「国防」の重要性をくり返し語り、その意味での軍事行動の必要性を説いている。こうして、ゼミ学生に対しては語り手が込めたメッセージが語られた。


 なぜ学生には語られたのに、私には語られなかったのか。その手がかりは、彼がその推薦本を学生に示したとき漏らした言葉にある。「まぁ、先生、どういうふうにおっしゃるかわかりませんけどね」と、私が抱くかもしれない懸念の言葉を口に出しているのである。推測するに、語り手が私に対してあえて評価的な言葉を発しなかったのは、彼の戦争観や国防観について私が批判的かもしれないという危惧の念があったからかもしれなかった。インタビュアーの苛立ちや違和感を換気する沈黙や語りがたさを内包する物語も、語りのヴァージョンのひとつなのである。

いやー、非常に興味深い。上記のエピソードを読み、私は何となくゴッフマン(ゴフマン)の役割距離の概念を思い出したのだが、実は本書の第3章ではゴッフマンを絡めてライフストーリーが語られるなど、けっこう色々な学問領域に派生している。

言葉遣いの難易度はそれほど高くはない。少なくとも専門家でなくとも普通に読めるレベルである。だから研究者を志す方でなくとも、人文系の学生や、人文系の本を嗜む方は、本書を読めばそれなりに得るものがあるだろう。

*1:以下、細かな引用注の引用は省略している。