インキュベ日記

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村上龍『すべての男は消耗品である。 VOL.6:1998年10月~2001年3月 衰退期へ』

すべての男は消耗品である。VOL.6: 1998年10月?2001年3月 衰退期へ

すべての男は消耗品である。VOL.6: 1998年10月?2001年3月 衰退期へ

村上龍が長年書いているエッセイシリーズ。これまで敬して遠ざけてきたが、電子書籍化されているのを知り、まとめて読んでいる最中。

VOL.5の感想で、日本社会の特質に対する村上龍の焦燥感みたいなものが強くなってきたと書いたが、正確には、焦燥感だけでなく諦念みたいなものも強くなっている。具体的には「私は○○を批判したいのではない。日本社会の△△の側面が端的に表れていると思うだけだ」といった物言いが多発する。しかし、書いてみて改めて思ったのだが、これは諦念なのだろうか。村上龍自身もこう書いている。

 批判というのは、基本的に「励まし」の側面を持っている。怒ったりするのは、まだ何かを信じているからだ。
 たとえば、わたしが映画監督をしているときに、セットの図面を持ってきたアートディレクターを批判し、怒るとする。
「バカ野郎、何を考えてるんだ、やり直せ」
 アートディレクターを根本的に信用しているから批判し怒るのである。本当にどうしようもないときは、はいはい、よく頑張ったね、とそのアートディレクターに笑顔で言ったあとで、あいつはクビにしてくれ、とプロデューサーに電話するだろう。

今引用していて気づいたけど、村上龍の一人称が「わたし」になっている。気づかなかったな。もしかしたらVOL.5のどこかで変わっていたのかもしれないし、VOL.6かもしれない。わたしの知る限り2018年現在も村上龍の一人称は「わたし」なので、90年代後半の時点で一人称は変わっていたのか。まあこの時点で40代半ばだから、あまりおっさんになって「オレ」や「ボク」は使いづらいのかもしれない。

閑話休題。批判と怒りについて、全く同意である。信頼し、期待しているから批判し、怒るのである。

ただし村上龍は結局、怒ってしまっている気もするが。やはり日本人として、諦めきれないのだろう。

余談

これは村上龍の諦念とは全く別次元なのだが、わたしは「怒り」を基にした……いや、怒りの要素が1%でも含まれたマネジメントやコミュニケーションを取ることはなくなった。わたしは元々ウェットな人間で、部下やメンバーに、時にはクライアントに対しても怒りを示すことがあった。わたしはワーカホリックではないが、仕事の品質にはこだわる。請け負った仕事については、オーダーを下回る品質のものは出さないし、部下にも出させない。部下の能力は概ね把握しているから、部下が自身の能力を最大発揮せず、期待値を満たしてこなかった場合、時には怒り、突き返すことをしてきた。単に感情コントロールが未熟な人間だったという一面もあるのだろうが、少なくともわたしは暴君ではなかった。繰り返すが、そもそも「怒り」の根本には期待や信頼があるのは紛れもない事実だ。怒るのにはエネルギーが要る。

しかし「怒り」が含まれるマネジメントやコミュニケーションの問題としては、その「怒り」の背景は結局相手には伝わらないのである。世代が違うほどわからないし、仕事人として未熟であるほどわからない。わたしも昔は、なぜボスや先輩が怒っているのかがわからないこともあった。でも振り返ると、今ならわかる(こともある)。繰り返すが、「怒り」が含まれるマネジメントやコミュニケーションの問題としては、その「怒り」の背景は結局相手には伝わらない点が挙げられる。そのことを近年わたしはある一件で痛感し、怒るのを止めた。部下やクライアントが期待値を満たさなくても、まさに村上龍の書くとおり「はいはい、よく頑張ったね」と笑顔で受け取り、わたしが修正する。これをすると、部下の能力はストレッチされない。そしてわたしがケツを拭かなければならない。でも、それで良いではないかと思うようになった。

まず第一に、わかるまで100回でも200回でも言い聞かせるという話もあるが、わたしはその方法は選ばない。それは結局「しつけ」であり、「怒り」でしつけるか、「回数」でしつけるか、わたしは本質的に同じだと思っている。だから怒りの要素をマネジメントやコミュニケーションから一切排除すると決めた時点で、回数によるしつけも一切排除することにした。2〜3回、きちんと話して理解しなければ、その時点で諦める。お手をさっと覚える犬もいれば、いくら言い聞かせても覚えない犬もいる。また特別しつけなくても余計なことをしない犬もいれば、少し状況が変わるだけで同種の失態を繰り返す犬もいる。人間も同じなのだと思う。少なくとも仕事能力という点では、打てば響く人間と、そうでない人間がいる。わたしは打てば響く人間と仕事をするために、他人の成長ではなく、自分の成長により大きなリソース配分をすることにしたのである。

第二に、そもそも何故わたしが育てねばならないのかという思いもある。これは余計なことをしたくないという傲慢な感情ではない。むしろ逆で、人を育てられると思うような人間は逆に傲慢だろうという自戒の念である。育つ人間は結局自分で育つし、育たない人間は育たない。しつけられることによって育ったと錯覚するのは人間的な行為ではないし、何かを教えられるという傲慢な感情で他人とコミュニケーションを取るのも嫌になった。

まとめると、これは村上龍がよく言っている「個」として傑出することなのだろうと思う。スポーツ選手がより強いチーム&より強いリーグを求めるのと同じである。弱く未熟なチームで戦うのは「美談」ではあるかもしれないが、その美談がハッピーエンドを迎えるのは、チームメンバーと同じ思想を共有し、かつチームメンバーに成長の余地がある場合に限られる。わたしも40歳という「不惑」の年になったが、人生50年の時代と今は違う。今時の40歳は、インディビジュアリストとしてまだまだギラついていなければならない。老け込むには早すぎる。