佐藤優+片山杜秀『現代に生きるファシズム』

現代に生きるファシズム (小学館新書)

現代に生きるファシズム (小学館新書)

近年、というのは少なくとも2000年以降ということだが、世界的にファシズムの機運が高まってきたと感じる。安易に保護政策をして安易に自国の弱い産業を守る、安易に他国や外国人を排斥する、安易に自国や自国民が優秀であると内外に喧伝しようとする……。それは日本だけではない。それ以上に、韓国がそうだし、北朝鮮がそうだし、中国もそうだし、トランプのアメリカもそうだ。日本にとって身近な国の大半がそうではないか。そしてヨーロッパの幾つかの国でも極右政党が一定の議席を占め始めている。

そういう問題意識というか、漠然とした気になるという感覚があり、本書を読んでみた次第。しかしながら本書は「現代に生きる」と言いながらも、戦前・戦中のドイツ・イタリア・日本の話だの、戦後日本の新自由主義だのといった話が多く、わたしはそこを「現代」とはあまり感じられないため、畢竟本書の読み方も流し読みチックになってしまった。

ただ、これは凄い、さすが佐藤優だと思う記載もいくつかある。

例えば序章の「感化の力」という下り。

戦中の日本は、資源に乏しい日本軍の発想は次第に「無理をしてでも勝つ、すなわち必死の任務による日本人の1人の犠牲が米国の10人の犠牲を作り出せば、それは良いことなのだ」という発想になり、特攻・神風・雷撃・人間魚雷などと呼ばれる自爆攻撃を前提とした凄惨な戦法を生み出すに至る。しかし、そこで冷静な人間なら通常こう考えるはずである。「日本は物資だけでなく人的資源も少ないのだから、1人⇒10人という安易な目論見が成立している間は良くても、相手に対策されて現実的に1人⇒1.5人とかになると必ず失敗するよ」と。言われたとおり必死の任務を行ったにも関わらず、それが戦局の好転に繋がらない……それがすなわち「無駄死」や「犬死」と呼ばれるもので、誰しも犬死は避けたいと思うはずだ。だが日本は、ある戦争賛美・特攻賛美の映画を作る。初期から中期にかけて日本は「大本営発表」なるものを行い、日本が本当は劣勢だということを十分に伝えなかったとされている。しかし戦争も終盤になると、そうした大本営発表の嘘もすぐわかるようになるため、逆に日本の苦しさを十分に伝えるようになったそうだ。日本は○○作戦で、したたかな成果を出した、しかし日本も相当な痛手を被り、こんなに大変なのであると。そして特攻が日本にとっても貴方の愛する家族にとっても重要であり、必要であり、仮に特攻で死んでも生と死は本質的にそんなに違いはないだろう……そんなことを何となく情緒的な音楽とともに、ストーリーとともに語るのである。そんなお気持ちで軍人の心を揺さぶるのである。

そして軍人は感化された。生も死も本質的には同じであると。

重要なのは、軍人は、特攻を決断したのではない。単に感化されたのである。決断ならば、翻すこともあるだろうが、感化は(感化が鈍ることはあっても)やっぱり間違っていましたという話にはならない。そして特攻すれば必ず死ぬのだから、感化が鈍った状態まで生きていることは原則ないわけである。秀逸で、醜悪なスキームだ。

佐藤優は、この感化の力は、現代日本においても十分に活用可能なスキームであると確信したそうだ。他ならぬ、3.11のボランティア活動によって。これこそ感化の力そのものであると佐藤優は言う。その言葉を読んだ当初、わたしは正直、非常に嫌な気分になった。しかし、これは目を背けてはならない真実なのだとも思う。誰かのために、日本人の絆のために、といった言葉で、ロジックを超えて、共同体のために滅私奉公したいという気持ちは、感化の力そのものである。そしてそれは、ボランティアのような効果を生む反面、国家権力に容易く利用され得るものである。