ひぐちアサ『おおきく振りかぶって』21巻

おおきく振りかぶって(21) (アフタヌーンKC)

おおきく振りかぶって(21) (アフタヌーンKC)

引っ越しに伴う諸般の事情で『おお振り』を手放していたのだが、先日ラーメン屋で本作を発見。これまで20巻までしか買っていなかったので、21巻をコミックスでまとめ読み……面白い! アフタヌーンで読んでいたので筋は知っているのだが、やはりコミックス単位でまとめて読むと面白い。電子書籍でも出ているようなので、最新刊まで改めて買い直したいと思った。

と同時に、なぜ私が『おお振り』のコミックス購入を中断し、手放したのか、その理由も思い出した。漫画家は時々、ある症候群(シンドローム)にかかることがある。読者が求めていないにも関わらず、サブキャラクターに焦点を当てたサイドストーリーや、主人公やライバルの過去に焦点を当てたサイドストーリー(いわゆる回想編)を延々と展開するという症候群である。これを延々やられると、漫画家は自画自賛・自己満足する一方で、読み手は「メインストーリーはいつ進むんだよ」とか「主人公側を掘り下げて書けよ」とうんざりしてしまうのである。

以下、余談として、この症候群について書いてみたい。

余談:サイドストーリー症候群(シンドローム)

サイドストーリー症候群(シンドローム)が何なのかについては上記の通りだが、この症候群の発生には幾つかの理由がある。そのひとつの理由は、自分の生み出したサブキャラクターに漫画家が強い思い入れを持っている場合である。読み手は大体、主人公や主人公サイドに感情移入・視点没入して読んでいるのだが、漫画家は必ずしもそうではない。むしろ主人公以上に、サブキャラクターに愛着を持っている場合がある。例えば、本作の21巻では武蔵野第一という高校とそのキャラクターに焦点が当てられているが、彼らは『おお振り』が生まれる前から作者が温めていた登場高校・登場人物である。しかし個人的には別に武蔵野第一に対する思い入れがない。だから16〜19巻で武蔵野第一の試合を2試合も延々と見せられ、やっと本編に戻ったと思ったら今度は21巻から主人公の高校(西浦高校)と武蔵野第一の試合が始まり、武蔵野第一目線で試合を描写していたため、雑誌で読んでいてテンションが下がり、21巻から購入をストップしたのである。

他の理由としては、対戦相手だのライバルだのの人間関係や、主人公の過去を掘り下げて、作品やエピソードに深みを出したいと思っている場合も挙げられるだろう。これは戦闘・格闘技・スポーツなど、主人公と相手が何らかの対決をする漫画では頻繁に採用されている。

あるいは、もっと単純に、次の展開に進む前の「溜め」や「アクセント(気分転換)」や「時間稼ぎ」としても使われる。

まとめよう。

  • サブキャラクターへの深すぎる愛情
  • 作品やエピソードに深みを出したいという思い
  • 次の展開に進む前の溜め・気分転換・時間稼ぎ

これらの理由が複合的に絡み合って、サイドストーリー症候群(シンドローム)が発症する。これらは「ほどほど」であれば上手くハマることもあるが、得てして症状は過剰である。

例えば『ONE PIECE』では、対戦がクライマックスに近づくと、必ずと言って良いほど対戦相手や、○○編にだけ登場するサブキャラクターの過去の回想編が長々と挿入される。あまりに冗長で私からすればほとんど馬鹿としか思えない(というかこれが鬱陶しすぎて読むのを諦めた)のだが、テレビにおける「正解はCMの後で!」のように、読者をうずうずさせる一定の効果はあると言えるだろう。

『はじめの一歩』でも、主人公の一歩の話がサクッと進み過ぎないように、定期的に一歩以外のキャラクターのボクシング模様が描かれる。それも最初は良い意味でアクセントになって良かったのだが、近頃は鷹村・木村・青木・板垣・一歩の元対戦相手・会長過去編・会長のお仲間・一歩の今の対戦相手……と延々、一歩以外の描写が続き、Amazonではほとんど炎上と言えるほどの低評価が並ぶ。

『GIANT KILLING』も、イチバン面白くなるべきところで監督の過去回想編が長引き過ぎて、個人的に興味が薄れた。

この症候群と上手く付き合っているのは何だろう……私が真っ先に思い浮かべたのは、修斗という総合格闘技に打ち込むアマチュア選手を描いた遠藤浩輝『オールラウンダー廻』である。この漫画の対戦相手は、基本的に最初は成長後の強さしか見せない。しかし両者が試合に集中・没入して行く中で、あるいは疲労したりメグルに殴られたり極められたりする中で、格闘家の意識は無意識と混在(混濁)する。その時、対戦相手の過去のエピソード、戦うモチベーション、成長する前の練習風景などが、ふっと挿入される。それは単に痛みや疲労や酸欠で意識が飛んでいる瞬間の場合もあるだろうし、集中(コンセントレーション)の極地で「ゾーン」に入った場合もあるだろう。いずれにせよ、挿入シーンは負ける直前の走馬灯とは限らない。全人格を賭けて実力の限界以上のものを出そうとギアを一段上げた際に頭をよぎる、根性の拠り所のようなものの場合もある。

なぜ『オールラウンダー廻』では、そうしたサイドストーリーを見せられても興が削がれないのか? それはもう単純に、サイドストーリーの長さだと感じる。先ほど挙げた駄目な例では、サイドストーリーを挟むことで、明らかにメインストーリーの展開が遅くなり、その結果、漫画自体のテンションも弛緩してしまっている。しかし『オールラウンダー廻』では、遠藤浩輝の意志と技術の下、せいぜい数ページ程度に抑制されたサイドストーリーが挟まれているだけなので、試合のテンションが下がらない。試合中に頭をよぎる無意識と考えると、むしろ自然な挿入シーンとすら言えるだろう。