芥見下々『呪術廻戦』2〜5巻および0巻

呪術廻戦 0 東京都立呪術高等専門学校 (ジャンプコミックスDIGITAL)

呪術廻戦 0 東京都立呪術高等専門学校 (ジャンプコミックスDIGITAL)

「呪い」のチカラを武器に戦う漫画。

やや展開が急な気もするが、素直に面白く、何らかの「異能」を武器に戦うジャンプの能力系バトル漫画の正統後継者と言って良い。

あ、ジャンプの「能力系バトル漫画」というのは今わたしが勝手に付けた名称だ。HUNTER X HUNTER・ONE PIECE(ワンピース)・僕のヒーローアカデミア(ヒロアカ)・ジョジョ等々、先天的・後天的を問わずある特殊な能力を持った人間が、その特殊な能力を素に戦いを繰り広げるという話である。*1

ここで重要なのは、ジャンプの「バトル漫画」の金字塔であるドラゴンボールはこの中に含まれないということだ。ドラゴンボールでは、かめはめ波・界王拳・元気玉・舞空術等々、数々の必殺技が登場するものの、かのフリーザが「私の戦闘力は530,000です」の発言でもわかるように、要は「強い者が勝つ」の世界である。強い者が、より強い人間と対峙して、つまりはそれは「負け」を意味するのだが、努力や友情によって力量差を乗り越えて強くなり、奇跡的な大逆転により勝利を収める。そしてその後、更に強い敵が主人公に立ちはだかる。ほんのちょっと前に限界を超えて奇跡の大勝利を成し遂げたばかりの主人公たちは当然負けるはずなのだが、これまた更なる努力や友情によって力量差を再び乗り越え、奇跡的な大逆転により勝利を収める。そしてその後……というのがドラゴンボールの基本的なストーリー構造である。強い者が勝つ、そして自分よりも強い者に立ち向かうことで通常では考えられないほどの短期的な成長を成し遂げ、より強くなって勝つというのは、多くの少年漫画で普通に見られた光景であり、ドラゴンボール以外でもキン肉マンや魁!男塾なども基本的にこのストーリー構造だったし、スポーツ漫画の大半も要するにこの構造だ。

ただ、これは大きな問題を抱えており「強さのインフレ化」を招いてしまうのだ。そして矛盾が生じる。ドラゴンボールでは、ベジータやフリーザとの戦いでは「気合を入れる」だけで地球が壊れそうになっていたのに、その数百倍・数千倍は強くなったはずの後半でも結局地球は壊れなかった。キャプテン翼では、中学生の蹴るシュートがゴールネットを突き破りスタジアムのコンクリートにめり込む、ゴールポストにぶつかったサッカーボールが破裂する等の驚異的な脚力を誇っていたにも関わらず、彼らが大人になってスペインリーグやセリアAで戦うようになってもボールが破裂することはなくなった。そして矛盾だけでなく読者の「飽き」を呼び込んでしまうのだ。

ただの「バトル漫画」ではなく、ここで「能力系バトル漫画」と描いた作品は、テイストの差こそあれ、この「強さのインフレ化」という問題を乗り越えるための仕掛けだとわたしは考えている。もちろんこれらの能力系バトル漫画にも強い・弱いの問題は残っているわけだが、ただ「強い者が勝つ」だけではなく、「自分の能力を活かして上手く勝てる者が強い」と、強さや勝利の定義に若干の変更が加えられている。そして、ただの「バトル漫画」と「能力系バトル漫画」の狭間にある画期的な作品が、仙水編以降の幽☆遊☆白書である。要するに強い者が勝つだけの世界観だった幽☆遊☆白書に、突如、シャドー(影を踏まれた相手が動けなくなる)やタブー(禁句を発した人間の魂が抜かれる)やコピー(触れた相手の記憶や外見をコピーできる)という能力を有した人間が現れるのである。しかもシャドーやタブーは、相手の暴力を強制的に封じることができるため、使い方によっては仙水、それどころか魔界の雷禅・黄泉・躯にすら勝てるのではないかと思う。

長くなったが、ここらで本題に戻ろう。能力系バトル漫画の「自分の能力」とは、多くの場合「自分の個性」に基づく能力だったりする。ハンターハンターは念という個性を使うし、ヒロアカはそのまんま個性だし、ジョジョのスタンドは自分自身の投影だったりする。本作は「呪い」がキーコンセプトだが、そもそも呪いに感応できる人間というのはごく僅かであり、呪いの力をどう戦いに活かすかも、千差万別のようだ。主人公は、呪物(呪いの品)を飲み込んで、つまり呪いをそのまま身に宿すことでの強さになるだろう。その他、呪具を用いた戦いをする者もいれば、呪言を用いた戦い、呪術を用いた戦い、亡霊的な輩を使役した戦いをする者もいる。戦いの幅が広く、なかなか面白い。

*1:ワンピースは○○の実という面白いギミックを実装したものの、結局、強い者が勝つという旧来的なバトル漫画の域を超えておらず、そのキャラの多さやご都合主義の強さから、正直わたしの好みではないため読んでいない。