鈴木望『青に、ふれる。』1巻

青に、ふれる。 : 1 (アクションコミックス)

青に、ふれる。 : 1 (アクションコミックス)

太田母斑による青いアザを持つ女子高生と、相貌失認により他人の顔を判別できない男性教諭の出会い。

男性教諭は、顔を判別できないため、その人の髪型や持ち物や制服の着こなし・声などをめちゃくちゃ細かくメモしている。しかし男性教諭は大事なメモの書かれた手帳を落としてしまうのである。たまたま手帳を目にした主人公は、自分の欄にだけ何も書かれていないことを発見し、先生が自分=アザであるという認識をしているため特徴をメモする必要がないという失礼さや、アザであることを敢えて記録しない偽善的な態度にいたく傷つき、抗議に向かう。しかし男性教諭は、実は相貌失認で、アザのことも認識しておらず、その青い部分を「オーラ」だと認識していたというトンデモな回答を行う。自分のアザを「オーラ」だと勘違いされたという妙なエピソードと、教諭の秘密(相貌失認)を知ってしまったことで、主人公は何となくその男性教諭のことが気になってしまう……とまあ、こんな感じのアウトラインだろうか。

一旦横道にそれます

さて、わたし自身の記憶を思い返すと、小学校時代のクラスメートに太田母斑(かどうか正確には知らないが)と思われる男子が一人いた。ただ、我々は決して彼のアザを馬鹿にしたりはしなかったように思う。そして友達同士の会話の中で話題にしたこともなかった。少なくともわたしはそうだ。わたしは(自分にも色々コンプレックスがあるので)その辺はかなり自覚的であり、普段は「口から生まれた」と怒られるほどペラペラ喋っていたけれど、その辺は慎重に行動してきたつもりだ。だが、ちょっとした事柄で囃し立てる馬鹿は通常どこの世界にもいる。どんな思いで、わたしだけでなく我々全員がアザについて一切口にしなかったのか、今となってはよくわからない。実はクラスの担任に代表される大人が厳しく言い含めたのかもしれないし、実はわたし以外の人間はちょいちょいからかっていたのかもしれない。

いずれにせよ、少なくともわたしの場合、彼に対する態度は同情とも優しさとも違っていた気がする。あえて言うと……何だろう。わたしはあなたのアザなんて気にもしていないし気づきもしていないよという態度を取り続けることが、子供ながら、自分なりの「マナー」であり、「恥ずかしくない一人の人間としての振る舞い」だったのかな、と思う。そうした外見を取り上げて一度でもからかうことは絶対にしてはならないとわたしは思っていた。

事実として、単に友達として付き合っている中で、他人の顔のアザの有無など、特段気にすることは起こらないわけである。

ただ、こちらが気にしていなくとも、そして本人は何も言わなくとも、やはり本人は強いコンプレックスを持っているだろうなと思うことはあった。それがわたしの思い込みなのか、事実そうだったのかは、当時から30年経った今となってはもうわからない(わたしは小学校卒業と共に広島から大阪に引っ越してしまったしね)。ただ、今でも忘れられない瞬間がある。集合写真……じゃないな、クラス全員ではなかった、たぶん遠足だったか外で遊んだか、あるいは卒業式の類だったか、とにかく友人何人かで記念に写真でも撮るかとなった時があって、まあそういう時、男子は大体ワチャワチャして「ハイ・チーズ」となるまでに時間がかかりがちである。その時もワチャワチャしてたのだろう、しかしまあ何とかワチャワチャも収束して、いざ写真を撮るタイミングで、もはや誰も騒いでいないのに、彼はもう一度「なんだよ~」という感じで右を向いて、彼だけが正面を向いていない写真が出来上がったことがあったのである。もう言うまでもないと思うが、彼のアザは顔の右半分にある。わたしはその時の首の振り方に物凄く違和感を感じたのである。わざとらしいというかね。

実はこの話には前段階があって、林間学校だか修学旅行だか、これも詳しくは全く覚えていないのだが、皆で風呂に入ったことがあり、この風呂場での写真も同様に右を向いていたのである。まあそもそも風呂場のようなプライベートな場で写真を撮ること自体、今では子供の人権云々みたいな話になりそうだが、当時は男子の場合、皆で浴槽に浸かって、ワチャワチャしながら「ハイ・チーズ」とする写真は普通に撮られていたし、個人的に何の違和感も感じていなかった。ただ、ハイ・チーズの中で一人だけ右を向いているというのはやはり違和感があり、本人は気にしているんだなとぼんやりと思っていたところで、また彼は右を向いたのだ。

本書の内容に戻って

本作の主人公は、太田母斑があることを、全く気にしないように振る舞う。友達との軽口でも、普通にアザの話をする。誰かがボソッと陰口を言っても、全く気にしないように振る舞う。しかし、これはかなり逆説的な振る舞いで、他人の振る舞いに傷ついたということを誰にも見せない、それどころか自分にも見せない、という最後の抵抗なのだ。本人は実のところ、深く傷ついているのだ。

わたしは本作を読んで、この「傷ついてなんていないんだよ」という主人公の振る舞いに、小学校時代の友人の姿を重ね合わせた。そして「気にしてなんていないんだよ」という30年前のわたしの振る舞いをも思い出させた。

つまり本作は強烈な印象を読後のわたしに残したのである。

太田母斑は今、レーザーでアザを消すことができるそうだ。主人公は友人にレーザー治療を薦められ、断っている。アザに負けるわけにはいかないと。しかし普通に考えると、アザが気になるなら、消してしまえば良いのである。そこに勝ち負けはないし、これは整形云々の倫理観とも違う話である。アザに勝ち負けという考えを抱いてしまっていること自体、強いコンプレックスの表れなのだ。

レーザー治療の技術は、わたしの子供の頃はどうだっただろう。治療できるなら、彼は喜んでしただろうか。

万人にとって、この何とも言えない痛切さが伝わるのかどうかはわからない。

しかしわたしは言いたい。これは極私的傑作である。わたしの心の、どこか深いところを痛切に揺さぶる作品である。

余談

押見修造『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』に通ずるところがある。

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