山崎明『SAXELT サクセルト』

SAXELT サクセルト

SAXELT サクセルト

これは、たまたま友人と渋谷のタワレコに寄ったときに見かけ、全編サックスソロでケルト音楽を演るという世界初の試みであること、「サクソフォンは木管楽器だったと改めて気付かされた」という帯のコメントが気になったことから、視聴もせずに購入したCDである。いわゆるジャケ買いである。

視聴もできなかったから特段の期待もしていなかったのだが、自宅に帰って聴いてみて、震えた。ジャケ買いによって稀に物凄い掘り出し物と出会えることがあるけれど、これはその中でも特級品であろう。帯の「サクソフォンは木管楽器だったと改めて気付かされた」というコメントがとにかく沁みる。聴いてみてほしい。このどこまでも甘く柔らかな音色。そして切なさ。木管楽器の定義も特徴もわたしには興味がないが、聴いた途端に「嗚呼! よくわからないけれどもこれは何だか凄く木管楽器です!」とすっと腑に落ちた。多くの人もそう感じてもらえるのではないだろうか。百聞は一聴に如かず。聴けばわかる、わたしの主張が。


回想ワルツ

しかもアイリッシュ・ミュージック(いわゆるケルト音楽とほぼ同義)というジャンルに、サックスがここまでマッチするとはね。全曲サックスメインで、伴奏にギターもしくはブズーキというマンドリンに似た弦楽器が加わるだけ、という実にシンプルな構成のCDである。しかし何百回・何千回聴いても飽きない。聴く度にわたしのささくれた感情や酷使され知恵熱を発しそうな脳が解きほぐされ、やさしくおだやかな気持ちになるのです。

これは30代になってから一番聴いているCDだと思う。

大・大・大推薦!

なおアーティスト名は「山﨑名」と旧字が正式なもののようである。文字化けしないようブログタイトルは新字で書いたが、念のため旧字も記載しておく。

余談としての、少し長めの「はじめに」

今回はmusicの第1回目である。だからという訳ではないが、普段はほとんどやらない多少の「自分語り」を許していただきたい。わたしは中学の頃、レンタルCDショップでCDをレンタルしてテープにダビングしまくり、高校の頃は母親から貰った昼食代1,000円をケチって小遣いと合算し、毎月何枚もCDを買っていた。大学に入ってからはバイトの金をCDに注ぎ込んだ。おかげで20歳になる頃には数百枚のCDは持っていただろう。

しかしわたしの世代では、(周囲から多少の音楽好きとは思われていたが)到底この程度では音楽マニアとは言えまい。わたしは1978年生まれである。そしてわたしが多感な10代の大半を過ごした1990年代は、日本で最もCDが売れた時代である。日本中の人々がヒットチャートを耳にして、こんなもん下らねーとか言いながら普通に歌詞が刷り込まれて口ずさめて、ヒットチャートでは飽き足りないと言ってややマイナーなものが数十万枚も売れ、それでも満足できずCDショップに通って音楽マニアな店員のお勧めする洋楽の新譜を探し出して買う、それが「普通」とされた時代である。わたしは普通の行動を少しばかり「徹底」した程度に過ぎない。そう、今で言うにわかである。

ジャンルはJ-POPと呼ばれるものからロックを中心とした洋楽全般、ジャズ、一部のクラシックまで比較的何でも聴いた。気に入ったものはそれこそ何百回と再生した。一日中・一晩中聴き続けた。寝る間もCDプレーヤーを流し続けた。そしてそれらの音楽の一部は、わたしの心臓に深く刻まれた。今でもそれらの音楽を聴くと体が引き裂かれるような、懐かしさに泣き出したくなるような、どうしようもない気分になる。有名どころの洋楽に限定しても、例えばジャミロクワイ。オアシス『Definitely Maybe』という奇蹟のように登場したアルバム。ブラー『Blur』のBeetlebumからsong 2というクソ衝撃的なオープニングチューン。なぜダンスミュージックとグレゴリオ聖歌を合わせちゃったのと小一時間問いつめたいエニグマ。クーラシェイカー。ニルヴァーナ『MTV・アンプラグド・イン・ニューヨーク』。ディアンジェロ『Voodoo』。カーディガンズの……この辺でやめておこう。

しかしわたしは変わった。25歳頃に社会人になったのをきっかけに、全く音楽を聴かなくなったのである。聴きたいと思わないどころか、音楽が、歌声が、耳障りで仕方がないと感じるようになった。わたしは学生の頃から「音楽を聴かないと死ぬ」とすら思っていたので、ここまで音楽を聴けないなんて心の病気でもうすぐ本当に死ぬんじゃないかと思った時期もあった。しかし実際には(当たり前だが)音楽を聴かなくとも問題なく生きていた。生き延びた。音楽を必要としない人間になったということにわたしは内心深く傷ついたが、それに気づいてからわたしはすべてのCDを処分し、わたしと音楽の距離はさらに離れていった。

社会人になってから20代の終わり頃までは自宅で音楽を聴いた記憶がない。

さて、30歳になる少し前だろうか、わたしは唐突にまた自宅で音楽を聴きたくなった。いざ聴いてみると大半の音楽は1回聴いて「もういいや」となるのだが、音楽を聴こうとする努力を続けた。テレビも当時は持っておらず(というか社会人になって以来ずっと持っていなかった)、家の中が無音であることに詰まらなさを感じたのである。それでこれまで聴いたこともないタイプの音楽を含め、聴いていて気持ちの良い音楽を色々と探すようになった。また昔聴いて感動したCDを(少しずつだが)再び買い集めるようにもなった。

今日ご紹介した山崎明『SAXELT サクセルト』は、そんな「リハビリ活動」の一環で、幸福にも出会った1枚である。このブログのメインが本であることに変わりはないが、音楽もわたしを形作る重要なインプットである。これからは愛聴するCDについても少しずつ紹介していきたい。