石川善樹『フルライフ 今日の仕事と10年先の目標と100年の人生をつなぐ時間戦略』

フルライフとは充実した人生のことだ。その反対のエンプティライフが空っぽの人生。「どんなことを考えてどんなことをすることでフルライフが得られるか?」を著者なりに考えたのが本書なのだが、言葉遣いがなかなか独特で、読み始めからじんわり刺さった。

例えば、著者は「フルライフとは、Well-DoingとWell-Beingの重心を見つけること」と定義している。ここでの"重心"とはプロイセンの軍事学者クラウゼヴィッツの「戦略家の仕事は、”重心”を発見すること」という言葉から援用しているのだが、この重心という言葉の定義も、「自律」に置き換えて解説している。そして自律とは「自由と規律のバランスを取ること」とある。聞けば「なるほど」なのだが、先ほど書いた通り言葉遣いがなかなか独特だ。先ほどのWell-DoingとWell-Beingも、シンプルに書けば要するにオンとオフのバランス、ワークライフバランスなのだが、正直ワークライフバランスと狭量に整理すると、仕事をしすぎないようにして……あるいは成功するにはガムシャラに働いて……という浅い二元論になる。その意味で、こうした言葉選びのセンスは重要なのだと思う。

本書では色々なことが書かれているが、個人的に最も興味深かったのは「1週間の時間の捉え方」である。一般的には月曜日を1週間の始まりとして捉え、週末と名のつくとおり土日で静養したりリフレッシュしたりしている。しかしこれには問題があり、平日の疲れを休日に「寝溜め」して帳尻を合わせるために、休日の起きる時間と寝る時間が変わり、その結果、月火水の3日程度はせっかく休んだのに「社会的時差ボケ(旅行などに行ってなくとも時差ボケに似た症状が起きること)」で週の冒頭から既に疲れており、100%のパフォーマンスを発揮できず、そしてやっと社会的時差ボケに慣れた頃には週末を迎える――という悪循環に陥る人が多いそうだ。

めちゃくちゃわかる!!!!!

この問題の解決策としては、まず一義的には平日と休日の起きる時間を寝る時間を一定にして、寝溜めからの社会的時差ボケを起こさないようにすることが重要である。そして具体的には、1週間の始まりを「土曜の朝」とすることが重要だと著者は説く。1週間の始まりを寝て過ごすのではなく、またやらなければならないことをやるのではなく、やりたいことをやるようにする。心理学で「ポジティブスケジューリング」と呼ぶそうだ。

そして土曜始まりのカレンダーを作ることで(紙では存在しないのでデジタル版のカレンダーで設定する)、「今までの土日の自分はだらけすぎていたな」と気付けるそうだ。確かに気づける。何ならわたしは、(仕事で見るカレンダーだから)平日の5日間しか表示させていなかったが、土日の予定をまず見ていくべきかもしれないと思った。

ジェレミー・アトリー+ペリー・クレバーン『スタンフォードの人気教授が教える「使える」アイデアを「無限に」生み出す方法』

うーん。イマイチ。というかピンと来ない。

最近アイデア発想法や事業創出の方法論に係る本を有名なものから無名なものまでまとめて読んでいるが、どれもこれもピンと来ないんだよな。

本書の書く「質よりも量を追求せよ」というコンセプトには何となくふんわり賛同した。しかし結局、どうやったら量をたくさん出せてそれが質に転化するのか、それがわからない。

アンドリー・セドニエフ『IDEA FACTORY 頭をアイデア工場にする20のステップ』

すごく評判の良いアイデア創出テクニック本という触れ込みだが、正直ピンと来なかった。

なんだろなー。もうちょっとTechnicalというか、方法論チックなものを求めているのかも。

矢野友理+STUDY HACKER『数学嫌いの東大生が実践していた「読むだけ数学勉強法」』

まるで「なろう系の小説」のような書名だ。

タイトル以上の内容はない。

問題を解くのではなく、ひたすら参考書を読むことで、参考書を高速で回せるというハックである。

良いか悪いか……と問われると、正直よくわからない。ただし面白さは感じた。

もう10年近く前だが、山口真由というタレント弁護士が書いた『東大首席弁護士が教える超速「7回読み」勉強法』という本を読んだことがある。これが文系だけでなく理系の勉強法にも使えるのかもしれない、いや、使えたら凄い……そういう面白さである。

incubator.hatenablog.com

風流小茄子『Kindle作家のための誤字脱字完全攻略ガイド』

わたしの部下に、めちゃくちゃ誤字脱字をやらかす人間がおり、正直ものすごくストレス。

わらにもすがる思いで読んでみたが、正直期待外れかな。

わたしは長年コンサルということもあってプロジェクトベースの配下は数百人に及ぶ。その中には、今の部下と同等もしくはそれ以上に誤字脱字の多い人間がいた。わたしの場合、アウトプットは部下の作成したものを含め極めて丁寧に見るため、彼らの誤字脱字の様子をこの著者以上に見ていると思う。その立場の人間から申し上げると、「ク」と「ワ」を間違えるといった手書き原稿時代の失敗は今はほぼ100%発生しない。「本件は」を「本拳は」と書くような変換ミス、あるいは雑なコピペのため「クリエイティブに」を「クリエイティ」と脱字したり、「クリエティブにに」といった余計な文字が入るというケースが多い。

対処法も大したものは書かれていない。

宮本道人『古びた未来をどう壊す?~世界を書き換える「ストーリー」のつくり方とつかい方~』

単に書名が格好良くて何となく気になったから買ったのだが、中身は「SF思考」の本。

わたし自身SF思考の本を何冊か読んでいるし、世の中的にも最近よくSF思考が取り上げられているが、SF思考と言われた際に採られているアプローチは大きく「SFプロトタイピング」と「SFバックキャスティング」の2つであると思う。

まずSFプロトタイピングとは、本書によれば以下の3つの要素を備えていることである。

  • 未来像や別様の可能性を「フィクション」の形式で作り出すこと
  • 作品制作が最終目的ではなく、別の目的を持ってSF作品を作ること
  • クリエイター以外の専門家が関与して創作が行われること

次に「SFバックキャスティング」とは、これも本書の定義を紐解くが、「フォアキャスティング」と対になる言葉であり、現在を起点に未来を予測するのではなく、未来を起点として逆行的に現在までの道すじを考えることである。ただ、ここまでだと単に「バックキャスティング」だ。本書で言うSFバックキャスティングとは、正確には以下の要素を備えていることである。

  • 未来ストーリーを参考にして「今やるべきこと」を考えること
  • 単にビジネス的に逆算するのではなく、逆算のプロセスでもSF要素を介すこと
  • フィクションを要素分解し、一部でも現実化して社会を変えようとすること

要するに、発想を遠くに飛ばして未来像を描く「SFプロトタイピング」と、その未来像を現実と接着して着地させる「SFバックキャスティング」をセットにした概念がSF思考である。そして更にSF思考を使いこなすためにアプローチを細分化すると、「つくる→あらわす→つかう→なる」のサイクルで表せるようだ。

  • SFプロトタイピング
    • ステージA:未来ストーリーを「つくる」――世界観とプロットをざっくり考える
    • ステージB:未来ストーリーを「あらわす」――世界観とプロットを「SF作品」に仕上げる
  • SFバックキャスティング
    • ステージC:未来ストーリーを「つかう」――フィクションを要素分解し、現実とのリンクを探す
    • ステージD:未来ストーリーに「なる」――フィクションから生まれたアイデアを現実化する

未来起点で将来像を「つくる」ことをして、SF作品に「あらわす」ことでその将来像を豊かにイメージし、将来像を現在に引き戻すのだが、引き戻す際に安易に矮小化せず、現在地とSF作品の接点を探していく(SF作品を「つかう」)、そしてSF作品で表された未来ストーリーを部分的にでも現実化していく(SFの世界に「なる」)――これがSF思考だと本書は説く。

個人的には、なかなかわかりやすくて「なるほど!」と思えた。

他のSF思考の本よりも、わかりやすくてイメージしやすいような気がする。

小沼敏郎『アイデアの育て方』

アイデアの育て方

アイデアの育て方

Amazon

わたしは電子書籍で読んだから気づかなかったが、「分量少ないな?」と思ってAmazonでチェックしたら、かなり小ぶりの本らしい。

14日間かけて以下のようなことを検討しましょうという本なのだが、書名にあるとおり、アイデアそのものではなくアイデアをどう育てるかが重要というスタンスである。またアイデアは横に広げる(50個出す、100個出す)のではなく、縦に広げる(ひとつのアイデアをきちんと掘り下げる)ことが重要というスタンス。

アイデアを育てると決める【DAY1〜3】
焦らず静かにアイデアと向き合う二日間
 問1「そのアイデアをどうしたいか」
 問2「アイデアを育てる準備は整っているか」
 問3「アイデアを言葉にできるか」
 問4「アイデアの目的や価値は何か」
 問5「アイデアの登場人物は誰か」

アイデアにイマジネーションを与える【DAY3〜5】
自由に想像しアイデアを膨らませる三日間
 問6「そのアイデアで喜ぶ一人と一万人を考えられるか」
 問7「そのアイデアが最高にうまくいったら」
 問8「『こんな感じ』が表現できるか」

アイデアを突き詰める【DAY6】
集中してとことん考え尽くす一日
 問9「アイデアに関して調べまくっているか」
 問10「そのアイデアがユニークな点、オリジナルな点は何か」
 問11「そのアイデアの中に新しい言葉はつくれるか」
 問12「そのアイデアを構築するキーファクターは何か」

アイデアなんて忘れる【DAY7〜8】
あなたもアイデアも休んで寝かせる二日間
 問13「アイデアから距離を置けるか」
 問14「アイデアに心身をすり減らしていないか」
 問15「アイデアを捨てられるか」

アイデアを否定する【DAY9】
現実に向き合う最も不安でシビアな一日
 問16「ネガティブファクターは何か」
 問17「ネガティブファクターを乗り越えるアイデアは何か」
 問18「失敗、撤退の定義はできているか」

アイデアを洗練させる【DAY10〜11】
伝わりやすさを作る二日間
 問19「『事実』と『仮説』は切り分けられているか」
 問20「アイデアを解像度高くホットに伝えられるか」
 問21「そのアイデアは端的に語れるか」

アイデアを話す【DAY12〜13】
あなたのアイデアをみんなのアイデアにする二日間
 問22「どんなフィードバックが来ているか」
 問23「未来の仲間はつくれそうか」

アイデアを旅に出す【DAY14】
一歩を踏み出す日は、新しいアイデアの始まりの日
 問24「実行プランは何か」
 問25「最初に誰に動いてもらうか」
 問26「終わらない旅に出かける気持ちはあるか」

冒頭でも述べたが、短くて読みやすい。

合理性やツールありきでのアイデア本ではないため、何となく支えてもらっている安心感がある。

これはけっこう良い本なのかもしれない。

篠原信『思考の枠を超える 自分の「思い込み」の外にある「アイデア」を見つける方法』

丁寧に書かれているものの、なんか硬いな。

思い込みや経験からくる固定観念によって作られる思考の枠を、思惑にかけて「思枠」と表現しているところは面白かったが、これ自体、ちょっと硬いというか、頭でっかちというかね。もう少し自然体で思考の枠を超えていくことが必要なのかも。

青木亮作(TENT)『アイデアとかデザインとか』

治田将之と著者の青木亮作が2011年にTENTというクリエイティユニットを立ち上げたらしい。

プロダクトデザイナーのことは正直あまり知らないが、本書を読むと、何となく親近感が沸く。何となくね。

内容は……まあまあ。個人的には、もう少し方法論的なものが知りたかった気もする。

tent1000.com

大崎善生『将棋の子』

『聖の青春』を書いた元将棋雑誌編集者による、奨励会に挑み、そして敗れた人々にスポットライトを当てた傑作。

www.shogi.or.jp

ja.wikipedia.org

奨励会とは、プロ棋士養成機関である。東西に分かれてプロ志望者がしのぎを削り、非常に厳しい一部の人間だけがプロ棋士になれる、公正で公平で、そして厳正なトーナメントである。しかし年齢制限がある。一定の年齢に達するまでに奨励会を勝ち抜くことができなければ、もうプロになることはできない。倍率は高く、どうしても勝ち抜けず、敗れ去っていく者が大半だ。

そしてプロになってからも厳しい戦いは続く。

「将棋は厳しくはなく、その本質は優しいものなのである」

本書の終盤で出てくる言葉だが、この言葉をわたしは口が裂けても言えないだろう。なぜなら将棋とはどこまでも厳しいものだと思うからだ。運の要素がなく、引き分けもない。どこまでも1対1の勝負の結果だけが厳然と――奨励会も同じだ。どれだけ頑張っても、駆け抜けられる人間もいれば、プロになれない人間もいる。

著者は本当に、将棋の本質は「優しいもの」であると思っているのだろうか?

優しいものであってほしい、将棋に本気で関わった人が救われてほしい、幸せであってほしい、という祈りのようなものだとわたしは思った。

読みながら涙が止まらなかった。

そして熱いものが体中に流れ込んできた。

仕事を頑張ろう。

趣味を頑張ろう。

人生を頑張ろう。

頑張ることを頑張ろう。

近年はてな界隈で声高に主張される「努力できることもただの恵まれたギフトであり、全ては運に過ぎない」という究極の努力相対主義/運至上主義が、わたしは本当に大嫌いだ。この論調を是とすると、奨励会で涙を流した人たちは、ただ実力がなく、努力する才能もない不運な人々だということになる。イチローも松井秀喜も大谷翔平も中田ヒデも、ビジネスの最前線で働き成功している人たちも、世界を変える研究に没頭している人たちも、そして藤井聡太も、ただガチャに恵まれて環境面や努力を含むあらゆる才能があっただけの幸運な人間になる。

わたしは認めない。

全てを運に収斂させる方が、よほど残酷だ。そして実態と合っていない。

成功した研究者たちが何を言っても、またSNSで他人を批判するだけの人間が何を言っても、努力はその当人の意志と、努力できる工夫の賜物だ。

時代錯誤でも良い。わたしは頑張ることを頑張っていこうと思う。そして奮闘した人間をリスペクトし続けようと思う。

村井龍生『超基本!新商品アイデアの出し方』

新商品アイデアの出し方と書かれているが、発想法などではなく、ステップ論。

最近この手の新規事業や新サービスに関する本をよく読んでいるし、これからも読もうと思っているのだが、正直あまりピンと来ていない。まず、発想法ありきで上手く行くほど単純な世界ではないように思う。そして方法論以上に、ステップ論で「こういうことをこういう風に考えたら上手く行きます」とは絶対に言えないものだろう。そんな簡単に生み出せたら誰も苦労はしない。

しかし方法論やステップ論が不要かと問われたら、それも違うような気がして。

この辺の悩みが解消する本に出会えると良いのだがなぁ……。

石原千秋『読者はどこにいるのか 読者論入門』

本書について

小説を読むを読むとはどういうことなのか?

小説を読む人すなわち読者とは何なのか?

読者は、小説に対してどこまで自由な読みが許されるのか?

――これを考えるのが読者論だ。広義には文芸批評論そのものと言えるかもしれないし、狭義には小説における自己論・自我論という話なのだろう。

内容については、本書の「おわりに」で丁寧にまとめられている。

 この本で試みたのは、次の四つのことだ。少し難しい書き方になることをお許し願いたい。
 第一は、日本の近代文学研究では、どのようなパラダイムを背景に「読者」が音大として浮かび上がってきたのかについて明らかにすること。(略)
 第二は、小説テクストにおいて「読者」がどのような機能を果たしているかを明らかにすること。この場合の「読者」は現実世界に実在している読者とまったく手を切っているわけではないが、現実世界からは相対的に自立しており、小説テクストの呼びかけに応えるような「読者」である。また、現実世界の経験をもとに、私たちが小説テクストを四つの物語に類型化して読むだろうことにも触れておいた。要するに、「読者」は現実世界と小説テクストとの間に概念として・・・・・「存在」するのである。この構造を説明するためには「語り手」という概念が機能しなければならないことも、実例を示して論じた。これは一般の読者に、小説テクスト内で自分がどのような「読者」になっているかということに自覚的になってほしいために書いたのである。
 第三は、こうした読者論とカルチュラル・スタディーズとの接続を試みたこと。そのために「内面の共同体」というやや舌足らずな概念を提案した。「内面の共同体」とは、他人も自分と同じように読んでいるだろうという間主観的な意識で、現実には読者の内面を規定していながら、読者が十分には意識できないようなパラダイムのことである。(略)
 第四は、柄谷行人『近代文学の終り』(略)に対する、異議申し立てを試みたこと。柄谷行人は「内面」を書くような近代文学は終わったと説くが、それは現代社会の内面に対するパラダイムと読者との結びつき、すなわち内面の共同体を無視した議論ではないだろうか。この点について、現代の内面志向のパラダイムを前提に、最近の小説を例に文学の内面志向について論じた。
 以前からそうしてきたが、これらの課題のために文学理論を援用することをためらわなかった。(略)文学には「実証」できなくても論じなければならない領域があると思っている。「読者」はそのさいたるものだが(引用者注:「最たる」と書いてほしいが編集ミスでは?)、このレベルまでは共通理解としておきたいことを書いた。
 これらの議論を通して、私たち読者がいまどこにいるかが問われることになるだろう。また、私たち読者がどういう仕事をしているかが問われることになるだろう。この本が、多くの読者にとって自らを映し出す鏡のような役割を果たせたら嬉しい。

石原千秋は夏目漱石の研究者として有名だが、それと同時にテクスト論の信奉者として有名だ。テクスト論をわたしなりの言葉で説明すると「文章を"作者の意図"から切り離して、あくまでも文章それ自体として読もうとする思想であり立場」だ。テクストから読み取れるならば、あるいはその可能性をテクストから否定できないのであれば、作者の意図から遠く離れた"誤読"も上等だとみなす立場だと言い換えることもできる。

なお、テクスト論を突き詰めると、読者の存在や立場に自覚的にならざるを得ないので、この本が出たとき「石原千秋の文学研究の到達点なのかな」と思ったが、それは半分正しい。「半分」というのは、著者は近年、どうやら「研究者向け」ではなく、広く社会に向けて発信することを今まで以上に重視しているらしいからだ。著者はなんと学会の改革に取り組み、その達成と同時に学会自体を退会したそうなので、生半可な決意ではない。個人的には、改革したならそのまま続ければ良いだろうという気もするが、当人なりの「けじめ」のようなものがあるんだろうなと。

門外漢のわたしには、本書が厳密な意味で"研究"としての業績なのかどうかはよくわからないため、「半分」と書いた。しかしいずれにせよ、わたし自身は面白く読み、色々なことを学び、また考えさせてもらった。これが少しでも達成されたならば、わたしが「本書が厳密な意味で"研究"としての業績なのかどうかはよくわからない」と書いたところで、著者も細かなことは言わないだろう。

本書を手に取った背景にあるわたしの問題意識

さて、ここからは少し脱線する。

読者論は、世の中的には単に「古いテーマ」なのかもしれない。しかし個人的には「古くて新しいテーマ」である。

例えば昨今、SNSでは誰かの言説、ベタに書くなら「投稿」が本人の意図を超えて甚大なインパクトを残すことがある。舌禍事件、今風に呼ぶなら「炎上」である。その際、炎上させた側が「誤解を与える表現をしてしまった」「不愉快な思いをさせたとしたら大変申し訳ない」などと書いて沈静化を図るケースがあるが、これはもう炎上対策としては0点だ。ほとんど必ず「お前の本心が我々大衆に正しく伝わっているのに"誤解"とは何事か」「こちらが不愉快な思いをしなかったら謝罪する必要がないという表明は"真の謝罪"ではない」という反応が来て、さらに激しく炎上する。

この件でわたしが興味深いと思うのは、この大衆の揚げ足の取り方(と言うのも失礼だが)自体、実はネットで学習されたものだという点である。一昔前は、炎上サイドが効果の低い釈明会見をしたところで、せいぜい「何となく不愉快だ」「それっぽい言葉で誤っているだけで反省しているように見えない」という程度の解像度で大衆は怒っていたと思う。しかしこの20年ぐらいのSNS空間において、大衆はもう様々な形で揚げ足を取り続け、本来そこまでロジカルでない人間までもが「これに対する漠然としたもやもや感はこう表現すれば良いんだ」と学習し、その結果、その辺の大衆が(と言うのも失礼だが)、この程度の切り返しは簡単に言語化してしまう。そして、更に別の人が、自分の不満をより強く認識して燃え上がらせるロジックを学び、使い出すのである。

わたしは、はてなブックマーク(はてブ)というソーシャルブックマーク(SBM)のサービスの黎明期からのユーザーだ。他の人が考えていないような視点やロジックで世相を切り取ることや、他の人の視点やロジックを見るのが好きだったのかなと思う。いや、もっと言うと、SNSという言論空間で、適切な視点やロジックが広まっていくのが面白かったのかなと思う。サイバーカスケード(人が特定の意見を見聞きして、最後は大きな流れになること)というやつである。

しかし最近は大きく2つの観点で、SNSの言論空間はつまらない、かつ危険なものだと思うようになった。ひとつは、サイバーカスケードを通り越してエコーチェンバー現象としか思えない(サイバーカスケードと違って自分の考えが正しいというのが前提にあり、その他の考え方を排除するもの)危険な世論の盛り上がり方をしていることだ。そしてもうひとつが、この「エコーチェンバー」というワード自体が象徴的なのだが、当人が「自身の主張ありき」で、正しく理解していないワードや視点・ロジックを都合よく使ってSNSの言論空間のうねりを産み出している点だ。つまり単なるエコーチェンバー現象ではなく、「自身の主張ありき」かつ「間違ったワードや視点・ロジック」を元に、陳腐な世論というか空気が形成されているのである。劣化エコーチェンバー現象とでも呼ぼうか。

この劣化エコーチェンバー現象については複数の問題があり、まず、これによって作られた世論というか空気が実につまらない通俗論であるということだが、殊「炎上」に絞ると、批判自体がまともなワード・視点・ロジックではないことから、反論自体が難しいという新たな問題も生むようになったと感じる。

例えば、最近の文春砲で話題になっているダウンタウンの性加害問題。これについては色々な意味で下らないと思っているため、正直あまり語りたくない。しかし、ひとつだけ指摘というか問題提起をしたい。松本は今、何が批判され、何が彼の仕事を「キャンセル」させるほどのインパクトがあり、何に反論すれば良いのか、松本自身がおそらく理解できていないだろう。何故か? 松本が馬鹿で古い考え方だからではない。批判している大衆の側が馬鹿だからだ

自分を不快にさせている、お笑いというのは何となく「いじめ」の要素があって何となく気に入らない、女性を大切にしない言動はあまねくけしからん、といった実にふんわりした理由で、大衆は批判を続けている。おそらく何を批判しているかすらわかっていないだろう。ただ批判の炎はとんでもなく大きくなっている。そして松本が何を言っても、そして何を言わなくとも、ただひたすらに憎悪を拡大させている。マスゴミの責任? そんなもの語る気もない。文春砲だけがジャーナリズムだという過激な論客もたまにいるが、とんでもない。もし文春以外のジャーナリズムが死に絶えたと感じているならば、世の中すべてのジャーナリズムは既に絶滅済だ。アンジャッシュ渡部や広末涼子の不倫の報道に何の社会正義があると言うのだろう?

話を松本の件に戻すが、当然わたしは事実を知る立場にない。しかし今のところ松本は性加害を否定しており、現状確固たる証拠もないわけで、推定無罪の原則から彼はまだ犯罪者ではないわけだが、社会的リンチに異を唱えた人間も「擁護派」として酷い暴力行為に晒される。その結果、テレビ局やスポンサーも何が問題かよくわからないまま「神様たるお客様が声高に言っているのだから」と「キャンセル」の要請に応えて仕事を奪う、すなわち経済的損害を与えている。これは先ほど書いた劣化エコーチェンバー現象そのものなのだが、単に下らないだけでなく、実に暴力的で危険な風潮だとわたしは感じる。

もう一度書く。自分を不快にさせた、自分の思想信条に合わない、気に入らない人物や言動であるという理由で「相手を社会的にも経済的にも抹殺するまで追い込んで良い」という風潮がSNS上では既に確立されている。さらに驚くべきことに「告発すること/晒すこと」と「事実かどうかわからない一方的な訴えを理由に、一個人が制裁を加えること」は今、とても良いことだとされている。そして実際に、数多くの大衆が思い思いの「気分」で、数多の人間や組織を社会的・経済的に抹殺している。私人逮捕系YouTuberの活動には賛否両論あるそうだが、それに否を唱えた人間が返す刀でダウンタウン松本やアンジャッシュ渡部や広末涼子を殴りつけている。松本もさることながらアンジャッシュ渡部や広末涼子が何をした? 不倫は犯罪ではないし、奥さんや家族と、多目的トイレを不正に使われたビルの運営会社が怒れば良い話だ。彼らのCMやテレビ出演を皆で圧力をかけて経済活動を妨害し、社会的・経済的に抹殺するなど信じられない暴力行為だが、なぜだか多くの人間がそれを正しい、推奨される倫理的な行為だとすら思っている。

もう一度書く。劣化エコーチェンバー現象に基づくキャンセルカルチャーは、極めて暴力的で危険な風潮だとわたしは感じる。

……長くなったのと、時間が迫っているので、まだまだ途中なのだが乱暴にまとめよう。わたしは読者論の本の感想で、なぜこんなことを書いているのだろうか? テクスト論における「誤読する権利」をわたしは面白いと思っているが、それはあくまで文芸批評上の話である。現実のSNSなどの文章には、上記のような暴力的で危険な風潮を背景に、むしろ「誤読しない義務」があるのではないかという当たり前すぎる問題意識を持っていた。だからわたしにとっては読者論は「古いテーマ」ではなく「古くて新しいテーマ」として、単なる小説の解釈ではなく、現実と接続しながら本書を読んでいた、そういう話である。

冒頭で挙げた問題意識に戻ろう。冒頭で、炎上させた側が「誤解を与える表現をしてしまった」「不愉快な思いをさせたとしたら大変申し訳ない」などと書いて沈静化を図るケースがあると述べた。わたしは元来、この手の謝罪の仕方を嫌うタイプである。ロジックがズレているからだ。ロジックがズレているというのは、筋が通らないということだ。わたしは真面目なので、筋の通らない話で何となく沈静化を図るのは、わたしは乱暴だし欺瞞だと感じる。しかし最近、わたしはこの手の筋の悪い謝罪の仕方に指摘をすることは、はてブでもリアルでもほとんどなくなった。なぜか? ひとつは前述の通り、この手の揚げ足取りのパターンを皆が学習して我先にと指摘するため、わたしが敢えて指摘することに面白さを感じなくなったためである。そしてもうひとつは、「誤解を与える表現をしてしまった」「不愉快な思いをさせたとしたら大変申し訳ない」という昭和な弁明が、実は単に未熟なのではなく、この言い回し自体が"真実"の一端を表していると思うようになったからだ。ここ、実はまだまだ色々と言いたいことがある。あるんだが、今日はこの辺にしておこうと思う。機会があればどこかでまた……。