坪倉優介『ぼくらはみんな生きている』

最初に、帯の一節を引用したい。

病院のベッドで目覚めたら、家族や友人のことだけでなくどうやって食べるのかも、寝るのかも、トイレに行くことさえも忘れていた。

帯からして凄いのだが、本書の内容はもっと凄い。何と、大学一年生の時のバイク事故で18年間の記憶をほとんど何もかも失ってしまった著者による手記である。史上稀にみる強い衝撃を読者に与える自伝系ノンフィクションではないだろうか?

もはやテレビドラマや小説などでの記憶喪失の描かれ方はステロタイプ化していると言っても良いだろう。お決まりの「ここはどこ?わたしはだれ?」というセリフに始まり、何かを思い出そうとしたら「あ、頭が割れるように痛い……!」と続き(どうして申し合わせたように「割れるように」と陳腐に形容するのか?)、そして時々は、何かをきっかけとして全てをクリアに思い出し、記憶は元に戻る――多かれ少なかれ「記憶喪失」と聞くと、大体このような情景を思い浮かべるだろう。

しかしヒネクレ者の俺は、そういったテレビや小説での描写を目にするたび「なぜこいつらは記憶喪失のくせにペラペラ喋れるんだろう? 言葉すら忘れてしまうようなことはないのか?」「自分の名前すら忘れてしまう重度の記憶喪失者の記憶って、そんなに簡単に戻るものなのか?」とずっと気になっていた。そして、本書を読むと俺の疑問が非常に正当な疑問だったということがよくわかる。三流の脚本家や小説家の陳腐な想像力などアッサリと吹き飛ばしてしまうような過酷な世界がここにはある。

著者は人格どころか歩き方や表情すら以前とは変わってしまっている。日本語だって忘れているから自分の気持ちを表現できないし、細かい感覚もわからない。「おいしい」という感覚も言葉も忘れているし、満腹で苦しくても「満腹」という概念がわからないからテーブルの食べ物を全て平らげてしまう。もちろん味覚だって変わっている。「あいうえお」も書けないし、読めない。テレビを観ても話の内容が全くわからない。昼夜の感覚もないから気になることがあれば真夜中だろうと母親を起こして質問攻めにする。「眠いので明日にして」と母親は言うが、著者には「明日」の意味だってわからない――。

今までの記憶も、ほとんどは戻ってこないままだ。名前と住所以外は自分のことでさえも何も覚えていない。たまに記憶が戻ってきて昔の記憶をペラペラと喋りだすこともあるが、自分で喋っているという実感が湧かない。喋り終わった瞬間には、もうその記憶がまた消え去ってしまうこともある。親友や彼女のことも覚えていないし、家族のことすら覚えていない。周囲が「母さん」と呼んでいるので著者も「母さん」と母親のことを呼んでいるが、「母さん」の本当の意味合いを理解しているわけではない。「母さん」の本当の意味は後ほど自分で覚え直すことになる。

彼は全てを再学習していったのだ。

鳥肌モノの凄まじい本である。筆舌に尽くしがたい衝撃を俺は受けた。多くの人に読んでもらいたい。特に「記憶」と「言葉」に興味のある人は必読。