荒俣宏の世紀の傑作「シム・フースイ」シリーズの3作目。「黄色いカビ」「腐ったサンゴ」に続き、今度はトッカピという韓国の独脚の霊と戦う。早い話が案山子(カカシ)だそうだ。今度の敵は「韓国のカカシ」ですか。コイツらの戦いは胡散臭さ全開である。
さて、『シム・フースイVersion2.0 二色人の夜』のインキュベ日記の続きだが、この「シム・フースイ」シリーズは、(特に主人公の黒田龍人は)霊能力や霊視といったものを「病気」だと捉えている。霊を見たり感知したりするときは、必ず悪寒や不快感といった「マイナスの違和感」でもって感知する。つまり、霊能力や霊視は確かに特別かもしれないが、見えたからといって良いことはないし、むしろ霊を感知することで非常に苦しめられるのである。
だから「超能力」のような英雄めいた視点では霊視は語られない。特別かもしれないけれど、特別なのは「病気」だからなのだ、という図式を用いている。これは非常に斬新だと思う。まさか「ほんとに見えてんのかぁ!?」「霊が見えたから何じゃい!」という俺のような不心得者の意識を汲んでいるわけではなかろうが、非常に共感できる設定だ。
というのは、霊能力とか霊視だとかの能力を持っている(と思い込んでいる?)ことで、「まあ見えない人は見えないんだけど、俺には見えちゃうんだよね、へっへっへ」みたいな感じで、あたかも自分が特別な人間だと得意に思っているような奴がいるが、ソイツらは、とにかく俺には胡散臭いし、見ていて我慢ならないのである。だから、ソイツらの言うことはまず信じないし、霊能力や霊視でテレビに出てチヤホヤされてるボケ共も同様にウザすぎる。見えるんなら、その証拠を見せてみろって感じだ。アホくさ。
かなり話がズレてしまった。話を戻すと、本書では、そーいったオカルト話にありがちな選民思想的な形で霊能力や霊視が語られることはほとんどないから、オカルトにアレルギーを起こしてしまう人でも抵抗なく読めるのではないだろうか、ということである。この「シム・フースイ」シリーズの奥深さはまだまだあるのだが、他の設定については、長くなったので、また別の機会で書くことにする。