小林よしのり『ゴーマニズム宣言 差別論スペシャル』

『戦争論2』を購入したので、良い機会だと思って、俺が持っている小林よしのりの著作を読み返すことにした。といっても、「1冊ワンテーマ書き下ろし」の「漫画」の著作に限るが。

本書を出した頃の小林よしのりに対しては、「いいぞ! もっとやれ! もっとやってくれ!」といった、共感に似た気持ちを持って眺めていたような気がする。以前から俺の大嫌いだった悪良識・悪平等といったものに対して、小林よしのりは多少のユーモアと独特のゴーマニズムによって容赦のない攻撃を加えていったからだ。今回の『差別論スペシャル』では、そういった姿勢は自主規制の問題への言及に繋がっていく。差別語は、もちろん言葉そのものの使用を止めるべきだということもあるのだが、それ以上に「文脈で判断する」ことが大事であろう。しかし欧米では常識の「文脈で判断する」といったことが日本では考慮されていない。「臭いものにはフタ」的な逃げの姿勢、「差別語を使うから差別が生まれる」のなら「差別語を使わせないことで差別をなくそう」といった安直な姿勢では、本当の意味では差別はなくならないだろう。自主規制とは、実は差別に対しての思考停止を意味していた。それを示して世論を喚起した小林よしのりの成果は価値のあるものだろう。

ところで、「差別」というものに対して多少なりとも敏感になった(少なくとも敏感であらねばならないと意識するようになった)のは、大学で得た数少ない俺の財産の1つだ。例えば、本書で大きな割合を占めている部落差別についても、俺は転勤族の家庭の上、ベッドタウンにずっと住んできたこともあって、正直なところ以前は良くも悪くも部落差別についてそれほど何かを感じたことはなかった。だから、昔も今も差別意識はないし、昔ならたとえ部落出身者が周囲にいても「ああそうか」と思っただけだろう。だが俺に差別意識がないからといって、その頃の俺が差別とは全く無縁だったかというと、必ずしもそうではない、ということに今は気づき始めている。

差別に鈍感な人々が増えていくことで、表面的には差別はなくなったように見える。しかし、実は差別は全然なくならず、地下に潜っていっただけなのだ。見えない差別はより狡猾で、陰湿だ。そして一部の差別者の心ない差別は終わることがない。公衆便所には、未だに部落差別の落書きが書かれ続けているではないか! しかし、見えない差別に気づけない鈍感な人々は、被差別者の必死の訴えにもリアリティを感じることができない。そういった人々は、無自覚・無意識・無知といった悪徳によって差別を容認することになる。鈍感な人々は、もちろん主体的に差別を行っているわけではないが、鈍感であるという事実だけで、構造的に差別に荷担していることになる――と感じるようになった。もちろん俺は差別とガンガン戦っているわけではないし、これからもその予定はないが、「差別というものが現に存在している」ということに対して常に敏感であろうとする意識はある。その点で昔よりはマシだと思っている。

俺は、恥ずかしながら、大学で差別について考えることで初めてこのことを理解できたのだが、実はこのことは本書でも言及されていることである。ただ、昔の俺はなかなか差別に対してリアリティを感じることができず、高校の時の俺はここまでのメッセージを読み取ることはできなかった。

能力の差異による結果の不平等はともかく、部落差別のようにスタートラインの時点で序列化する差別が許しがたいことであるのは、ほとんどの人はわかっている。ただ、わかっているだけ、その人が差別しないだけでは、底の浅い一元的な理解に過ぎない。一歩踏み込んで、差別に鈍感でいることは差別に構造的に荷担してしまっていること、そのことに気づく必要がある。