小林よしのり『新ゴーマニズム宣言スペシャル 戦争論』

「1冊ワンテーマ」の「漫画」に限れば、ゴー宣スペシャルの中では『差別論』と『脱正義論』に続く著作だが、まさに稀に見る問題作であり話題作であろう。本書の情報量や384ページの書き下ろしということを考えると、1500円という値段設定は非常に良心的であり、小林よしのりに対してどのようなスタンスであれ、買って損はないと思う。小林よしのりに批判的な人も、ぜひ読んでほしい。俺だって全て納得しながら読んだわけでは全然ないが、小林よしのりに対してどのような態度を取るかということは、今とても重要なポイントだと思う。

戦争とは何か?国家とは何か?そして「個」とは?

さて、手始めに帯のコピーを引用してみたが、本書は(帯のコピーにあるように)「戦争」「国家」「個」といったものに対して考察を加えている本であるが、久々に読み返してみて少し驚いたことがある。以前は本書の愛国主義的なエッセンスがどうも鼻について好きになれなかったので適当に読み流したのだが、それを深追いせずに論理を追っていくと、本書があまりにも「まっとうなこと」を言っているように思えたのだ。

まず小林よしのりは「戦争」とは何か明確な定義づけをする。よく小林よしのりの嫌う、うす甘い「戦後民主主義」の信奉者たちは「戦争のない平和な社会を!」などと叫ぶが、「平和」の反対は「戦争」などではないと小林よしのりは言う。「平和」とは状態であり、「戦争」は手段であるからだ。戦争が本当に状態ではなくて手段なのかどうかは留保しておくにしても、今のアメリカを見ていたら「戦争」が国家の政策であることは容易に納得できるだろう。では「平和」という状態の反対は何かというと、それは「混乱」ないし「無秩序」という状態である。「平和」とは、「混乱」や「無秩序」のない状態――つまり「秩序」のことなのである。そして「戦争」という(外交)手段の反対は「話し合い」という(外交)手段なのだそうだ。

続く「個」と「公」の問題においても、ナショナリズム的エッセンスを除けば、ここも実は、あまりにもマトモなことを言っている。「戦争問題はとにかく反省して謝罪することが正しい」と考えるような「戦後民主主義」の「空気」が日本には蔓延しているが、思考停止的に「反戦平和」を叫ぶだけでは戦争の体験を活かしたことには全くならない。また当時の帝国主義的な世界においては、戦争をすることも悪ではなかったし、止むを得なかったし、他国も自分たちの罪を謝罪などしていないのに、それを現在の視点から安易に価値評価し、敗戦国というだけで日本を思考停止的に「悪」と断じることは不毛だと説くのである。

そのあと、第二次世界大戦(大東亜戦争)において日本のために命を賭けて戦った兵士たちの「特攻」の精神や愛国心を激賞するあたりは、まあ小林よしのりには悪いが無視して良いだろう。特攻の効果を力説しているが、(犬死にとまでは言わないまでも)一度きりの特攻はジリ貧を加速させるだけで、そんな褒め称えるような戦略とも思わないからだ。

小林よしのりがこの寓話から導きたいのは、要は、そのあとに出てくる「公が個を支えている」「個人が公(国)に権利だけを主張する昨今では個人は公(国)を守る義務すら負わないのだろうか?」という主張である。そして、これがまた、あまりにも正しい。

共同体において、「市民」は権利を得る代わりに義務を果たす必要があるのに、現在の日本は義務を果たさず権利を主張するばかりの「私民」であり、「市民」とは言えないと小林よしのりは言うのである。義務を果たして初めて権利を主張することが認められるのに、思考停止的に反戦平和を唱えるばかりで秩序維持といった共同体において最も大事な義務から目をそむけようとするのは、「市民」失格の烙印を押されても仕方ないだろう。……年金を払わないような、義務と無縁の俺が言うのもアレだが(笑)

(ナショナリズム的エッセンスを除けば)以上が本書の大ざっぱなアウトラインだが、改めて読んでみると、(ナショナリズム的エッセンスを除けば)あまりにも「まっとうなこと」を言っているのに驚かされた。戦争=悪という短絡的な思考停止は止めよ、「市民」であるにはまず義務を果たせ、これは(まあ右傾化してるとは思うが)もはや無知蒙昧な国粋主義者とは言えまい。

さて、アウトラインを眺めることで本書の論点も明確になってきた。一部アウトラインと重複するが、まず1つが権利と義務の問題。これは上記で充分だろうから何も言うまい。もう1つが戦争すなわち第二次世界大戦(大東亜戦争)の捉え返し。これはもう少しだけ書くが、なぜ日本では太平洋戦争について一部でも肯定的な側面を語ると、(戦争を正当化した訳でもないのに)すぐに「国粋主義者」とされるのであろうか? ここで、本書の前半にしか出てこない(と思われる)「空気」という隠れたキーワードが再浮上する。

物事には表と裏(誤解を恐れずより端的に言えば肯定的側面と否定的側面)がある。全肯定や全否定は宗教や全体主義である。良い面は肯定的に評価し、悪い面は否定的に評価すれば良い。「真実」などとしたり顔で言う前に、可能な限り事実を調べたら良い。嘘(事実ではないもの)をイデオロギーや良心で「真実」にしてはならない。それが事実から派生した妥当な認識である限り、その認識は尊重するべきだ。このことは、俺にはあまりにも「まっとうなこと」であり、第二次世界大戦であっても同じである。たとえ肯定的側面の限りなく少ない出来事であっても例外ではない。全肯定や全否定をアッサリと前提的に受容することこそ狂信的だと俺は思う。

しかし、戦後日本では「戦争」とは全否定の代物でしかない。物事の両面性を指摘すること自体に「国粋主義者」のレッテルを貼り付けようとする戦後民主主義の「空気」は、少なくとも俺にはとても抑圧的で思考停止的で全体主義的な閉塞感を醸し出すものだ。しかし「空気」に流されるばかりの人々は、どうやらそうは思わないらしい。この鈍感さと言ったら!

そして、この空気は、真実どころか「事実」を究明しようとすることすら高圧的に排除しようとする。例えば、南京大虐殺で30万人が殺されたという主張に人口動態の面から異論を唱えることで、たとえ事実に基づいた反論であっても「危険な愛国主義者」「戦争を正当化する」とのレッテルを貼られ、糾弾される。小林よしのりが客観的データを武器に南京大虐殺の存在の非妥当性を主張しているのに対して、その反対陣営は道徳やら良心やら、あるいはヒステリーやらが主な武器である。どちらが歴史に対する真摯なスタンスなのだろうか?

最近では「歴史修正主義」というレッテルが流行で、まるで小林よしのりは「事実を捻じ曲げようとする不届きな輩」として語られる。しかし、事実の究明と事実の捻じ曲げが同列に語られる時点で、日本における「空気」による緩やかな全体主義は、もう既に完成しているのかもしれない。