村上春樹『アンダーグラウンド』

300冊目のインキュベ日記である。節目に相応しい、価値ある本と言えるだろう。

一九九五年三月二〇日の朝、東京の地下でほんとうに何が起こったのか。同年一月の阪神大震災につづいて日本中を震撼させたオウム真理教団による地下鉄サリン事件。この事件を境に日本人はどこへ行こうとしているのか、62人の関係者にインタビューを重ね、村上春樹が真相に迫るノンフィクション書き下ろし。

90年代を代表するショッキングな事件を5つ挙げろと言われたら、その中に、俺は迷わず地下鉄サリン事件を入れるだろう。何気ない日常のすぐそばに非日常が息を潜めている、ということを否応なく理解した事件だった。あれから、今まで気にも留めなかった道端や電車の中のゴミ袋がどうも目についたり、(小さなことなのかもしれないが)潜在/顕在の両面で確実に俺を変えてしまった。他の人も多かれ少なかれ事件の前後で何かが変わってしまったことだろう。地下鉄サリン事件については、それこそ星の数ほどの報道がなされたのだから。

けれど、体験していない人が地下鉄で何が起こったのかを理解するのは、マスコミに編集された情報を介して理解するしかない。時にはマスコミに都合良く、時には権力者に都合良く、時には「客観的」という仮面を被り、時には放送時間の関係で、時には俺らのささやかな正義感を満足させるために、地下鉄サリン事件の情報も(ご多分に漏れず)否応なく編集されて俺らに届けられたようだ。

いったい3月20日の地下鉄で何が起こり、そこに居合わせた人は何を感じ、そしてそのあと何が変わってしまったのか? あるいは変わらなかったのか? あの朝、“ほんとうに”何がどうなったのか? それを関係者(被害者や被害者の遺族など)の声をとことん拾い上げることで深く理解しようとしたのが本書である。村上春樹は可能な限り被害者に寄り添い、被害者が本当に感じていることや訴えたいことを可能な限り俺らに伝えようとすることで、「客観的」な報道やワイドショー的な報道では決して見えてこない事件の様相を鋭くえぐりだしたと俺は思う。

本書には、不幸にも亡くなってしまった人や今でも後遺症に悩まされている人もいれば、今では普通に暮らしている人もいる。今でも怒りを胸に秘めている人もいれば、もう平静さを取り戻している人もいる。しかし大事なことは被害の大小ではない。被害の軽い人は軽いなりに、事件に翻弄されたのだ。彼らの話も、貴重な体験であり、証言だ。

本書の貴重な証言は、計り知れない衝撃を、世間にも俺にも与えた。俺は今でもよく覚えているが、本書の発売はNHKのニュースでも取り上げられたのだ。一般書の発売が(ワイドショーではなく)一般の「ニュース」として取り上げられることなど今まであっただろうか? 二段組みで800ページ近くある大部な本書を、俺は2年近くかけて読み継いだ。何度も読み返し、何度も立ち止まり、そうすることで62人が体験したことを自らに刻みつけようとした。俺がここまで丹念に根気強く読み継いだ本はないけれど、その価値はあったと思う。必読。