石原千秋『大学受験のための小説講義』

石原千秋は入試国語の参考書を現在4冊ほど書いているが、『秘伝 中学入試国語読解法』は中学入試、『小説入門のための高校入試国語』は高校入試、本書は大学入試の小説、次回の『教養としての大学受験国語』は大学入試の評論についての講義である。中学入試・高校入試・大学入試の受験参考書を全て著した書き手はほとんどいない。石原千秋の方法論が普遍性を持つものだということを端的に示している。先回りして書くならば、この4冊は受験生に限らず、大学生や社会人・保護者という立場からも必読だと俺は思う。読むことと書くことの意味、学校で学ぶことの意味を、石原千秋の著作を片手に徹底的に再考するべきではないか。

石原千秋の詳しいスタンスは『秘伝 中学入試国語読解法』と『小説入門のための高校入試国語』の日記に譲る(どちらも丁寧かつ精密に書いた)が、改めて簡単に記すならば、学校の入試問題は「学校的な文脈」の中で出題される、ということだ。つまり、子どもが努力の末に成長するような図式や思春期の葛藤の図式は好かれるし、(極端に言えば)少年犯罪が肯定されるような問題は文章としても設問としても出てこない、ということだ。

石原千秋は「物語文」「主題文」という、小説や評論を一文に要約するトレーニングを提唱しているが、その有用性は以前に取り上げた『河合塾マキノ流! 国語トレーニング』が提示する「長いまとめ」と比べて端的に高いと思う。これだけで全てが解決するようなマジックでは全然ないが、俺は石原千秋の方法論の方が確実に実践的だと思う。

ところで、受験参考書としての内容とは直接的な繋がりはないものの、本書には「研究者」の役割について非常に興味深く言及した箇所があったので、ぜひ引用しておきたい。

 小説の読者は、大袈裟に言えば、あらゆるところに <なぜか?> という問いを仕掛けていく。すぐ答えられる問いもあるし、なかなか答えられない問いもあるし、まったく答えようのない問いもある。それにもかかわらず、 <なぜか?> <なぜか?> と問うことを止められない読者、それが小説の読者だ。(略)

 すぐれた小説の読者は(略)「なかなか答えられない問い」をテクストに巧妙に仕掛けていくものだ。もちろん、「なかなか答えられない問い」は「まったく答えられない問い」ではない。考えようによっては答えることの出来る問いなのである。そして、それに答えることによってテクストはより深く読み込まれる。そういうレベルにある問いだ。このことは、序章で述べた <ほどよい省略が行われ、ほどよい謎が仕掛けられている小説がすぐれた小説だ> という趣旨と対応している。ここでは、「ほどよい <なぜか?> という問いかけが出来る読者がすぐれた読者だ」と言っておこう。

 ただし、研究者は少し事情が違っている。「ほどよい問い」で満足していたのでは、一般の読者と同じレベルの読み込みしかできないからだ。研究者にとっては、「まったく答えようのない問い」に出来るだけ近づいた「なかなか答えられない問い」が、最も優れた問いだと言えるだろうか。それはほとんど「誤読」に近いが、「誤読」に少しでも触れる冒険を経験しないような読みは、研究者にとっては読みの名に値しない。研究者はたとえてみればテストパイロットのようなもので、テクストの可能性を限界まで引き出すのが仕事の一つだからだ。それがトリッキーだと感じるようでは、研究者の資格はない。

研究者を「テストパイロット」とする上記の比喩は、文学研究者に限った話ではない。文系研究者の本質を突いていると言えるだろう。

例えば、俺は社会学を専攻していたが、俺の研究対象の社会学者は、自らのコミュニケーション理論を「当時のアメリカ社会」「直接的なコミュニケーション」に限定していた。しかし俺の試みは、その問いの前提そのものを拡大させることで、彼の理論を「現代日本社会」「インターネット空間におけるコミュニケーション」に再編集し、現代社会と彼の理論の可能性を探るというものだった。ここで詳細な説明を行うつもりはないし、結局は色々あって実現できなかったが、それでも俺の試みにはそれなりの価値があるものだったような気がしないでもない。

誰かが理論や言説の可能性を限界まで引き出そうと格闘することは、とても大切だし、必要なことだ。彼らがいるからこそ見える「世界」は、確実に存在するのだから。しかし、その際に忘れてはならないことは、テストパイロットの研究費や給料は、誰かが負担しているということだ。例えばメーカーの研究所なら、メーカーが負担しているし、大学であれば、最終的には国民の税金を支払う国民が負担している。社会貢献や産官学の連携といった「閉塞を打ち破る開かれた視点」が、人文科学や社会学の研究者にも切実に求められている。自らの役割に自覚的であることが求められている。