石原千秋『教養としての大学受験国語』

石原千秋について、石原千秋の入試国語におけるスタンスについてなどは、全て以前の日記に譲る。『秘伝 中学入試国語読解法』は中学入試、『小説入門のための高校入試国語』は高校入試、前回の『大学受験のための小説講義』は大学入試の受験参考書である。ぜひ併読して下さい。

本書はテーマ別の講義によって大学入試国語を読み解く教養を身につけようとする「参考書」兼「教養書」だが、参考書としての質と独創性もさることながら、教養書としても俺はコンパクトにまとまっていて素晴らしいと俺は思った。例えば、第三章の「視線の戯れ――自己」には、こんな記述がある。

 アイデンティティ(自己同一性)は、自分が自分であると、自分自身で確信できることによって得られるものだと言われている。でも、それらはずいぶん不確かな実感によって得られるものだ。その不確かさを、いささかでも強固なものにしてくれるのが、自分を見る他者の存在なのである。自分を見ない、つまり自分にまったく関心を示さない他者は、アイデンティティを保証しない。だから、アイデンティティにはもう一つの側面があることになる。それは、先のようなアイデンティティの「確信」は、ある特定の他者がそれを承認していると感じることによって得られるということである。

 論理的に言っても、二項対立的思考から見れば、自分の発見は他者の発見と同時でなければならないから、自分が他者に支えられているということは当然のことなのである。このことは、心理学や社会学の常識ではあるけれども、ふつうには気付かれにくいことがらだ。

俺は大学に入学する以前から「自分らしさ」「本当の自分」「自分探し」といった「ここではない自分」に憧れるユートピア的な考えに違和感を抱いていたが、エリクソンやゴッフマン(ゴフマン)を読むことで「アイデンティティは『自分らしさ』などといった軽薄な問題ではなく、切実な他者問題だったのだ!」とリアルに実感できた。そのとき俺は震えるほどの衝撃を受けたが、本書では、それは「常識」として、いとも簡単に記されている。常識といえば常識なのかもしれないし、ここに知性に触れたとき特有の高揚感はないが、「自己を関係性の問題に還元して問い直す」という社会学的自己論のエッセンスを的確に抽出しているのは、鋭いと思う。

また、他にも面白いことが書いてあったので、第五章の「彼らには自分の顔が見えない――大衆」の一節を引用してみたい。

 さて、十数年後のアメリカは上野千鶴子の言うようになったのか。クリントン大統領は、ケネディ大統領を髣髴とさせるから当選したのだという説がある。強いアメリカの亡霊は、上野の予言どおり現れた。実際アメリカは強くなった。いまや世界の警察を自認するまでになった。アメリカは、いつでも正義の戦争を始める、いま最もアブナイ国家である。

本書は9.11テロやアメリカの報復戦争よりも前に書かれている。おぼろげながらも確実に現代を予見している。いや、引用の言葉を使うなら「予言」か? とにかく必読。