荒俣宏『文明の大陸移動説 神の物々交換』

「神の物々交換」の方が書名で「文明の大陸移動説」の方が副題。記念すべき500冊目は、サイトを作る前の、浪人や大学1〜2年生の頃に何度も何度も耽溺した本である。今までに10回は読んだかな。俺の人生に多大な――と書くと大げさだが、大学の学部など、確実に俺の人生に影響を与えた本ではある。まだ感想を書いていなかったので、500冊の区切りに改めて読み直すことにした。

舞台が縦横無尽に展開する上に個人的な思い入れがとても強いため、なかなか客観的に要約するのは難しいのだが、(書名にもあるように)本書のテーマは「交換」である。その「交換」というテーマは、「対比」と「折衷」という2つのキーワードを補助線にして、新世界(アメリカ大陸)と旧世界(ユーラシア大陸)を自在に行き来する「コロンブス交換」と銘打たれた1年間の取材旅行によって、さらに詳細に読み解かれる。そして「オリジナルとされている事象は交換によって生まれる」という逆説のダイナミズムが、驚きや知的喜びと共に示されるのだ。

ちなみに本書の旅のパッケージネームが「コロンブス交換」なのには深い意味合いがある。というのも、後掲するカーニヴァルが新旧両世界に普及し、神のポテトチップスが世界食になり、マリア観音が日本で作られ、全世界がひとつの文化交換マーケットとして成立するきっかけを作ったのが、あのコロンブスであったからだと荒俣宏が評価するからである。

話を戻すが、本書を待つまでもなく、どんなに地域固有とされる産品や風俗も何かしらの交換や折衷の末に生まれたものなのである。例えば、第一章では「食」の交換が示される。イタリア料理のトマトは言うまでもないが、ここではトマトと同じく新世界から旧世界(特にドイツ)へ根づいたジャガイモが、「ポテトチップス」という視点から語られる。また、第二章では「神」の交換が示される。グアテマラでは、サングラスをかけ、テンガロン・ハットをかぶり、チェックのシャツを着、ライターを持つ「神」がサン・シモンと呼ばれ崇拝される。しかもこれは裏切り者ユダなのである! 安っぽいマネキンの裏切り者ユダが、マヤの信仰に取り入れられ、崇拝されるのはなぜか?

これ以上書いてしまうと本書を読む楽しみが減るので、ポテトチップスとユダに隠された深淵の秘密を知りたくなった方は、ぜひ本書を読んでほしい。「交換」は実に奥深いよ。日本伝統の茶道ですら、カトリックの儀礼をベースに置いている部分があり、千利休の持ち物にはカトリック由来の天使様がはっきりと描かれているのだから! ちなみに第三章以降では「記憶」「服飾」「色彩」「闇」の交換が語られ、3つの付録もある。しかし、これらも多くは語るまい。ここは、あえて冒頭ガイダンスに触れたい。荒俣宏で真の素晴らしさはプロローグに集約されていると思うからである。凄まじい博覧強記ぶりを発揮して「この本を読みたい!」と思わせてくれる荒俣宏の導入術は天下一品だといつも思う。

「神のポテトチップスを見つけに――交換留学のような観光旅行術」という冒頭ガイダンスの見出しを初めて目にしたとき、秘密の真理に触れる鍵を渡されたような不思議な悦びを感じたものだが、まあ個人的経験は置いといて、冒頭ガイダンスの一節を長目に引用してみたい。なお、不要な箇所や不要な改行を全て反映させると凄まじく縦長になるので、少し編集した上で引用します。ご了承下さい。まあ、これでも充分に長すぎるけど!

 たとえば、ブラジル(サルバドル)のカーニヴァル。あの狂乱の舞台。三日間ぶっ通しに踊り狂う女たちは、野生に戻り、男のように攻撃的になり、黒ければ黒いほど光りかがやく膚(はだ)を、電飾にいろどられた夜の街にさらけだす。女はみんな、野獣に化ける。女が女なら、男も男だ。男たちはバレリーナのようによそおい、娼婦のように厚化粧し、飼い猫のように媚を売り、去勢された心の平和を謳歌する。男はみんな、女に化ける。

 あのカーニヴァルに集った群衆に、たとえば政府焼き打ちという方向づけを与えただけで、祭りは一瞬のうちに革命と化すだろう。カーニヴァルとは、そのような、天と地をひっくり返す祭りなのだ。

 けれど、一年のすべてを、本当に数日だけのカーニヴァルに注ぎこんで、あとは呆けた失業者として貧しく暮らすブラジル人は、祭りが終わると何ごともなかったように、どこもかしこもこわれた社会に戻る。ブラジルは変わらない。カーニヴァルだけが、形骸化した社会を夢のようにくつがえす。

 今度は目を旧世界に転じて、ヴェネツィアのカーニヴァルを眺めに行こう。ヴェネツィアは、アラビア人やトルコ人やアジア人の先鋒を目と鼻の先にした、西洋地中海世界の最前線にある。ユダヤ商人たちが交易と金融とをバネにして偉大な文化都市を築きあげたところでもある。ただ、ヴェネツィア社会はいつも動揺し、西洋なのか、それともオリエントなのか、その所属をいつも曖昧にしてきた都市だった。そのヴェネツィアに、この土地独特のカーニヴァルが生まれた。

 しかしヴェネツィアのカーニヴァルは、地球の反対側にあるブラジルのそれと、まるでちがう。こちらでは、膚を一切隠しこむ。顔さえも仮面に隠し、仮面舞踏会に出かける人びとは、名も知れぬ正体不明の存在に化ける。そして、アラビア風の衣装、ルネサンス期のコスチューム、さらにトルコや中国の民族衣装を着こんで、ヴェネツィアを強硬に支配したか、あるいは強大な脅威を与えた大国の昔を幻のように現出させる。

 だが、何よりも妙なのは、ヴェネツィアのカーニヴァルを演じる市民たちの行動だ。かれらは扮装して正体を隠すばかりではなく、ストップ・モーションのように動かないことで、その存在をも隠しこんでしまおうとする。街なかを無言で歩き、秘密のマスカレード会場に消えていく。ゴンドラに乗る市民たちは、まるで人形のようだ。他人に気づかれぬうちは歩きまわり、踊りまわるけれど、ひとたび、だれかの視線が向けられると、動きをピタリととめて、凍りつく。死のカーニヴァルであり、冷たい狂乱である。

 これは、野生を――アフリカの血を、ことさらに誇示して踊りまくる、裸のカーニヴァルの対極にある。ヴェネツィアでは、不安定きわまりない辺境の交易都市では、カーニヴァルのあいだだけ、すべてが動かなくなる。安定する。

 ならば、サルバドルとヴェネツィアのカーニヴァルを交換留学させたら、どういうことになるだろうか。なにかもっと、そらおそろしいカーニヴァルの秘密が、隠し絵のようにあらわれてきやしないか。

 対比。

 そう、世界のあちらとこちらとを直接比較してみる観光に、参加してやろうとは思わないか?

この一節を読むだけで好奇心が熱病のように疼く。もう「参加しま〜す!」って感じである。しかし同時に、これはまだガイダンスに過ぎないのである。本編にはさらなる興奮があり、読むごとに何かが深く揺さぶられる。自分が世界に解き放たれ、世界と自分が繋がり始める――。本書は個人的に深く魅了され耽溺した本であり、もちろん身びいきもあろう。ただ、多くの人の価値観を否応なく塗り替える知的興奮に満ちていることも確かだと思う。異文化論に興味を持つ人はもちろん、そうでない人にも必読である。何度でも書きたい。必読だと。本書を読んで、ぜひ「交換」の持つダイナミズムを少しでも感じ取っていただきたい。