インキュベ日記

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村上龍・村上春樹『ウォーク・ドント・ラン』

ウォーク・ドント・ラン―村上龍vs村上春樹

ウォーク・ドント・ラン―村上龍vs村上春樹

俺にとって特別な2人の作家、村上春樹村上龍による対談集。春樹にとっては『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『夢で会いましょう』のあとの作品、龍にとっては『限りなく透明に近いブルー』『海の向こうで戦争が始まる』『コインロッカー・ベイビーズ』のあとの作品なので、かなり初期に発表された本である。1981年当時の春樹はまだジャズバーを経営しており、兼業作家であったくらいだ。古い本であり、既に絶版になっている上に文庫化していないため、ファンでも読んでいない人が多いだろう。だが重要性は非常に高い。もし春樹か龍のファンならば必読だと言って良い。前に春樹や龍を論じた本を何冊か読んだことがあるが、今にして思えば、本書の内容がそのまま透けて見えるような箇所も幾つもある。2人の考え方や物事の捉え方がよくわかる興味深い話が満載である。
例えば「なぜ小説を書くのか」という問いに対する2人の考え方はなどは非常に対照的で、最も興味深い箇所の1つであろう。2人とも小説を書く理由が「自己表現のため」でないということでは一致するのだが、龍は「自己解放のため」と捉え、春樹は「自己変革のため」と捉えているのである。なるほど、確かに春樹は自己変革を続け、作品世界も変化して、深みと広がりを増している(と俺は思う)し、龍にそういった感じはない。どちらが良い・悪いを云々する気はないが、少なくとも初期の時点から春樹と龍に興味深い差異が存在していたことは確かだと思う。
春樹が「言葉」というものをどう捉えているかというエピソードも興味深い。春樹は大学闘争の時期に大学生だったが、周知のように大学闘争では小説家や文化人など色々な人が様々にアジっていた。しかし学生が大学を封鎖したところで何も変わらないことなど最初からわかっていたわけで、春樹は無責任な言葉を目の当たりにして、言葉なんか意味ないんじゃないかという不信感を感じたそうだ。それで、大学時代はシナリオを書きたいと思っていたものの、何も書けなくなった――そんなエピソードである。結局その10年後、神宮球場でヤクルトの試合を観ていたときに突如「小説を書こう」と思い立って『風の歌を聴け』を書き始めるわけだが(それを春樹は一種の「啓示」だと捉えている)、そのときもまず英語で書いてから日本語に翻訳するという作業を行うことで、言葉を「記号的」にして、言葉への不信感を取っ払っていったそうだ。
また初期の春樹作品の「僕」が数字に執着しているのはファンならば自明のことだが、それも根本の問題は言葉への不信感だ。単なる登場人物の設定などではなく、春樹自身が、言葉への不信から否応なく数字に執着しているのである。言葉を「偽善的」で「耐え難い時がある」と表現するほどに、春樹は言葉に対する不信感を抱いていたのだ(「偽善的」というのはかなり強い言葉だと思う)。
ところで春樹の「時代はどんどん、どんどん悪くなっていくと思うのですよね、絶対よくはならないと思う。で、どちらでもさ、崩壊というのをいちばん大事にしたいわけだけど、必ず崩壊はくると思うのね。経済的にも精神的にも。そこで小説がどう生き残っていけるかというのがやっぱり問題だと思うのですよ。崩壊を見届け、精神の再興にはたして小説が寄与できるかといった、角川文庫のことば風なね」という言葉には、かなりグッと来た。春樹文学は、当初の「デタッチメント」を強く意識した時期から、外国滞在やオウム・阪神大震災などを経て「コミットメント」や「作家の社会的責任」を強く志向するようになり、今まさに「他者や社会との共振」といったテーマを深く探るところまで到達しつつあるように思う。そのことが俺には、この20年前の発言を時間をかけて実行しつつあるように感じられたのである。
それに対して、龍は巻末の「村上春樹のこと」というあとがきで、作家としての決意表明を以下のように書いている(読みやすくするために改行を調整している)。

ある作家の出現で、自分の仕事が楽になる、ということがある。他者が、自分をくっきりとさせるのである。(略)私は村上春樹の小説を読んで、次のようなことを自分に言い聞かせた。長いものを書く。登場人物の出会いと反応を克明に書く。「会話」を軽視しよう、そして登場人物の行動で物語を進めよう。熱狂を書く。そのためには、イメージは最初から全開でなければならない。

龍は田舎者的なミーハー気質があるので、単に龍が新しいモノや流行のテーマを感覚的に小説にしているのだろう――という思いが、俺には拭いがたく存在した。しかし実はそうではなく、自分の資質を早くから理解した上で、ああいった小説を戦略的に書いていたことがわかる。俺が村上龍の中でも特に好きな『五分後の世界』『ヒュウガ・ウイルス』などは、明らかに会話が軽視され、登場人物の行動や反応が克明に描写され、そして熱狂が描かれている。もちろん試みが小説的に成功したか否かは読み手が判断するべきだろうが、今まで誤解していてスマンカッタという感じである。
他にも見どころは満載で、例えば「(戦争は)なくなったんじゃなくて、結局日常性の中に内向しているんだと思う」といった春樹の発言や、龍がクライマックスをカタルシスを感じつつ書いているのに対して春樹は恥じながら書いているという違い、三作目の重要性など、考え方や物事の捉え方について興味深い部分は他にも多々ある。しかしキリがないので、これくらいにしたい。繰り返すが、春樹や龍に興味があるなら必読である。いやマジで。