梅田望夫+平野啓一郎『ウェブ人間論』

梅田望夫と平野啓一郎による対談集。梅田望夫はシリコンバレーでコンサルティング会社を経営しながら雑誌『フォーサイト』にてグーグルの先進性を早くから述べ続けており、去年『ウェブ進化論』や『シリコンバレー精神』(読了済の『シリコンバレーは私をどう変えたか』の文庫版)で一気にブレイクした。さらに俺の使用している「はてなダイアリー」や「はてなアンテナ」を提供する株式会社はてなの社外取締役に就任するなど、その活躍の幅を広げており、個人的には最も注目している人物の1人である。一方、平野啓一郎の方はあまり詳しくはない。まあ史上最年少での芥川賞受賞作『日蝕』で衝撃的なデビューを飾った際はワクワクしながら本を手に取ったクチだが、当時は擬古文調の文体にどうしても馴染めず読み切れなかった。図書館で借りてきた代表作『葬送』も、あまりの分厚さに挫折。本屋でチェックする限りでは擬古文調でない作品もあるので、『日蝕』の擬古文調それ自体が文学の可能性を広げるための実験的な試みだったのかなとも思うが、一冊もまともに読んだことがないので正直よくわからない。

本書を読む前に危惧したことは、1975年生まれの平野啓一郎が1960年代生まれの梅田望夫に対して「世代論」的なフレームワークで対談を仕掛けるのではないか――という点であった。しかしその危惧は見当違いのものであり、本書が世代論的な議論に収斂することはほとんどなかった。ITの知識に勝る梅田望夫の発言に安易に同意してお茶を濁さず、真正面から議論をしている平野啓一郎のスタンスにも(議論がイマイチ噛み合っていないように思える箇所もあったけれど)好感を持った。

ただ平野啓一郎は「ネットと現実社会(リアル)」とか「実名と匿名」とか「本とウェブ」とかいった風に、すぐに二項対立的な枠組みを組み上げて議論を進めようとしていたという印象を持った。ブログにしてもブロガーの意識を5種類に分類していた。時折思い出したように、本当に必要なのか微妙な箇所でアレントやフーコーといった人文系や社会科学系の概念を持ち出して引用したりもしている。真面目なんだろうな。ナイーブと言い換えた方がより的確かもしれない。が、いずれにせよ、それらの分析的な視座が成功しているとはあまり思えず、結果として平野啓一郎の発言は紋切り型を述べている印象が強くなった。

例えば平野啓一郎は実名か匿名かという点に(フランスの事情なども持ち出して)異様にこだわっていたけれど、この点に対する俺の考えは梅田望夫と全く同じである。ブログに親しむ多くの人も同じ考えなのではないだろうかと推察する。

平野 梅田さんの場合、ご自身のブログで、上質なコミュニケーションが成立していることに、実名でブログを書いていることが関係していると思いますか?
梅田 それは、あまり関係ないと思う。「2ちゃんねる」の書き込みは完全な匿名で、名無しさんですよね。だけど、ブログの場合はペンネームであっても、書いてきたことの歴史がそのまま全部残るし、一人のアイデンティティというものが遡れるんです。平野啓一郎というのは本名ですか。
平野 ええ、本名です。
梅田 本名じゃない作家の方もたくさんいますよね。ブログもそれと一緒ですよ。ブログの上で歴史を重ねてきたら、実名でも匿名でも全く区別はないですね。

結局のところ「名前」というものをどう捉えるかという点に尽きると思うが、俺はインターネット上での言説の根本的な信頼性は決して「実名」には依拠しないと思う。結局のところブログにおいても、あるいはBBS・チャット・インスタントメッセージ・SNS等においても、ハンドルネームを「名前」として適切に扱い、個々人が適切に振る舞う空間であれば、(もちろん各種それぞれ細かな違いはあれど)たとえ実名でなくとも「名前」としてきちんと機能する。そして名前として機能するならば、コミュニケーションに対する粘り強い意志が存在する限り、その事実はコミュニケーションを成立させる根本的な信頼に繋がると思う。つまり「実名か実名でないか」というよりは「名前があるか名無しさんか」の方がコミュニケーションという視点からは決定的な断絶がある(その意味で2chはコミュニケーション的に重大な断絶があった)。

さらに言えば、ブログにおいては、たとえハンドルネームすらなくとも記事のアーカイブが継続的に蓄積されているのであれば構わないと思う。多くのブロガーにとってブログのURLは単なる「住所」というよりはもっと「名前」や「自分」に近い意味合いを持つのではないか――というのが俺の感覚である。まあコメントもトラックバックも知識もほとんどない(そういえば最近トラックスパムの削除が面倒だ)俺のようなブロガーが偉そうにコミュニケーションについて書くのもちょっとアレだが……。

ところで、はてなの社外取締役である梅田望夫がトラフィックを励みというか楽しみにするユーザーの存在を指摘していた点は、素直に「はてな、わかってくれているなあ」という嬉しい気持ちにさせられた。俺のような地味な辺境ブログの運営者にとって、トラフィックのチェックは、サイト運営への意外にも強いインセンティブになるのである。最近の日記もさることながら、数ヶ月前、数年前の日記を見て、意外なトラフィックがあるのを発見すると「こんな検索ワードで訪れてくれたのか〜」と実に面白い。以前の一番の傑作は「ホモ SM 獣姦」だろうか(実際そんな記事があった)。はてなには不満も多いが、「はてなダイアリー」を選んだことは正しかったと思う理由は「リンク元」機能の存在と「AmazonへのISBNリンク」の容易さである。

「リンク元」「おとなり日記」「同じ作品を取り上げたブロガーの一覧」などから、自分のブログのネット上での繋がりを常に意識しながら粛々と更新を続けることは、P164で平野啓一郎が言う「コミュニケーション型」ブログではないかもしれない。とはいえ、決して独り語りなんかではなく、これもまた立派な「静かなるコミュニケーション行為」だと俺は思うのである。