スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

村上春樹は、もうずっと前から60歳になったら『グレート・ギャツビー』の翻訳に挑戦してみたいと公言していたが、60歳を待たず、春樹訳の『グレート・ギャツビー』が世に問われることとなった。その理由は本書の「訳者あとがき」を読んでいただければと思うが、長年に渡り熟成させてきた素材だけあって、村上春樹は本当に丁寧な仕事をしている。もちろん俺は翻訳家ではないし、文学に造詣が深いわけでも、原書を読んだわけでもない。しかし書き手あるいは編集者が丁寧な仕事をしている本というのは、実はけっこうわかるのである。それが俺の(他人よりは少しばかり豊富な)読書経験によるものなのか、誰にでもわかるものなのか、よくわからない。いずれにせよ、これは本当に丁寧な仕事をしていて、読む喜びも持つ喜びも満たしてくれる、愛情に溢れた本である。
村上春樹スコット・フィッツジェラルドの作品を留保なく愛しているのは有名な話である。もちろん、スコット・フィッツジェラルドの作品の構成や文体・世界観と村上春樹の小説のそれが似通っているかといえば、必ずしもそうではないように思う。しかし、それでも村上春樹スコット・フィッツジェラルドの作品、とりわけ本書『グレート・ギャツビー』を愛しているし、影響を受けた、と随所で語っている。差し当たって本書の「訳者あとがき」を引用してみたい。

もし「これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本を三冊あげろ」と言われたら、考えるまでもなく答えは決まっている。この『グレート・ギャツビー』と、ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』と、レイモンド・チャンドラーロング・グッドバイ』である。どれも僕の人生(読書家としての人生、作家としての人生)にとっては不可欠な小説だが、どうしても一冊だけにしろと言われたら、僕はやはり迷うことなく『グレート・ギャツビー』を選ぶ。もし『グレート・ギャツビー』という作品に巡り会わなかったら、僕はたぶん今とは違う小説を書いていたのではあるまいかという気がするほどである(あるいは何も書いていなかったかもしれない。そのへんは純粋な仮定の領域の話だから、もちろん正確なところはわからないわけだが)。
いずれにせよ僕はそのくらいこの『グレート・ギャツビー』という作品に夢中になってきた。そこから多くのものごとを学んだし、多くの励ましを受けてきた。このどちらかというとこぢんまりとしたサイズの長篇小説は、小説家としての僕にとってのひとつの目標となり、定点となり、小説世界における座標のひとつの軸となった。僕は隅から隅まで丁寧に、何度も何度もこの世界を読み返し、多くの部分をほとんど暗記してしまった。

この「訳者あとがき」を読んでみても、あるいは今までに読んだ様々なエッセイなどを思い返してみても、本書の帯に書かれている「村上春樹が人生で巡り会った最もたいせつな小説」という文句は嘘ではないだろう。しかし丸暗記とはすごい。まさに村上春樹の汲めど尽くせぬ滋養であり、血となり肉となったんだろうな。
書評めいたことを書くのも悪くないが、ここはもう、素直に読んで、素直に感傷に浸りたい。狂乱の1920年代のアメリカをまさに狂乱のうちに突っ走ったスコットとゼルダの2人の人生そのものが、魅力的なストーリーや登場人物に流れ込んでいる。ジェイ・ギャツビー、デイジー・ブキャナン、ニック・キャラウェイ、ジョーダン・ベイカー、トム・ブキャナン――彼ら/彼女らは決して理想的な人物たちではなく、むしろ多くの抜き差しならない問題を抱えている。しかし、それでもなお彼ら/彼女らは他には替えがたい魅力に溢れており、そして水面に映る陽炎のような儚さを湛えているのである。