日置弘一郎+高尾義明+森雄繁+太源有『日本企業の「副」の研究 補佐・代行・支援…』

日本企業の「副」の研究―補佐・代行・支援…

日本企業の「副」の研究―補佐・代行・支援…

次長や課長代理といったポジションについて理論的な検討を加えた本。仕事関係で読了。
古くから「副部長代理補佐代行」といった類の冗談があるように、ポストありきの米国とは異なり、日本では代理だの次長だの補佐だの代行だのといったポジションが数多く作られる。そして部長や課長と比べると、それら「副」のポストの職責はどうしても不明確にならざるを得ない。しかし日本では、このようなポジションが作られるのは一般的である。
これらの組織現象に対して「非合理だ」「冗長な組織階層は組織を沈滞させる」「不要なポストは廃止して風通しの良い組織に」「米国でもブロードバンディングが進んでおり、その流れを作ったのは10数年前のGEで…」といった教科書的な議論をするのは簡単だ。しかし、そうした「副」のポジションが本当に非合理で不要なだけの存在なら、それらのポジションが日本で広く作られることはなかったはずである。
一見して非合理・無駄・不要に思えるものにも、それなりの言い分が必ずある。その言い分は既に形骸化しているかもしれないし、そもそも言い分としては陳腐で説得力に欠けるかもしれない。周囲が作っているからというだけの右へ倣え的な理由かもしれない。しかし、それでもなお、それらは「言い分」であるという点に注意すべきである。個人に対しても組織や社会のメカニズムに対しても、その声をきちんと聞き取ること――この点は、ここ数年の俺が自分に言い聞かせているテーマである。非合理的・非論理的なものに、実はメカニズムの本質が隠れていることも多い。
本書を読むと、「副」というポジションから、日本の企業が抱えている特質が浮き彫りになる。以下、本書の内容と必ずしも重ならない俺の考えなのだが、そもそも「副」という曖昧なポジションがどうして日本では数多く作られたのか? それは組織論的には明確で、(能力主義等級が抱える「ポスト不足」という構造的な課題を除けば)日本は仕事の職責や役割分担が曖昧だからだと思う。米国のような職務主義的なワークスタイル/人事制度では、仕事を個人単位に細分化し、仕事の責任も個人単位に紐付ける。対して日本では、仕事のスタイルとしてもメンタリティとしても人事制度としても、そうはなっていないし、今後もすぐにそうなることはないだろう。仕事の内容にも責任範囲にも、グレーゾーンが必ず存在するのである。
職務主義的なアメリカの企業では、一般に、ジョブ・ディスクリプション(職務記述書)を詳細に作成し、仕事内容や責任範囲を明確化する。しかし部門間や個人間には、どうしても所属の曖昧な仕事が存在するわけで、それらを隅々まで明確に切り分けるには、多大な労力を必要とする。担当の曖昧な際(きわ)の仕事を明確化すればするほど、各人に責任が紐づき、会社はドライになる(もっと言えばギスギスする)のである。それよりは、際(きわ)の仕事は「みんなの仕事」「みんなの責任」として取り組みましょう――というのが日本のスタイルだ。グレーゾーンが残っているのではなく、あえてグレーゾーンを残しているのが、日本のワークスタイルの本質のひとつであると言って良い。
もちろん元トリンプ・インターナショナル・ジャパンの吉越浩一郎のように、グレーゾーンを排除して徹底的な効率運営を行う選択をするのも手ではある。しかし多くの日本企業では、その選択はかなり難しいし、大変だ。そして仕事の生産性と引き換えに、際(きわ)をみんなで取り組むという日本企業の得がたい特質は喪われるのである。
グレーゾーンを残しつつ、グレーゾーンを残したメリットを享受しつつ、グレーゾーンの仕事が滞らないようにするには、責任範囲の曖昧な仕事を責任を持ってやる(矛盾した論理だが、わかった上で書いています)人物が必要だ。そしてその人には、必ずしも特定のミッションを持つ必要はない。根回し(決してネガティブな意味ではない!)や、調整や、上司の盾役や、現場の意見の吸い上げや、ラインの上司がいないときの意思決定を行い、それ以外にもグレーゾーン的な仕事が発生したときは常にアサインできるような臨戦態勢にある――という要件が必要とされると俺は思う。いわば「遊軍」である。そして、それこそが副部長だの課長代理だのといった「副」の人材ではないだろうか?
非常にマニアックなテーマを扱っていることもあり、何らかの問題意識がないと、本書を読むのは辛いだろう。万人にオススメする本ではない。しかし、日本の組織に興味や問題意識のある方には、それなりの示唆や論点を提供してくれるかもしれない。何しろ、次長や課長代理というポジションについて理論的な検討を加えた本はほとんど皆無であり、類書が全然ないのである。完成度については、もっともっと要求したいところも正直あるのだが、それでもなお現時点では唯一無二の本と言って良い。