爆笑問題+伊勢崎賢治『爆笑問題のニッポンの教養 平和は闘いだ 平和構築学』

爆笑問題のニッポンの教養 平和は闘いだ 平和構築学

爆笑問題のニッポンの教養 平和は闘いだ 平和構築学

俺にとって伊勢崎賢治という人物は『武装解除』という著書に書かれていた「DDR」という言葉と共に、強烈に記憶された人物である。この『武装解除』という本にDDRの現場の極めて印象的な描写があったので、再度引用してみたい。

紛争解決の究極の処方箋?――DDR
ハンマーがひとつ、ふたつと、古びたAK47オートマティック・ライフルに打ち下ろされる。やっと銃身が曲がり始めたところで、涙を拭い、また打ち下ろす。ハンマーを握るのは、歳の頃は十八くらい。まだ顔にあどけなさが残る、同じ年恰好の少年たちで構成されるゲリラ小隊を率いてきた“隊長(コマンダー)”だ。(中略)何人の子供たち、婦女子に手をかけ、そして、何人の同朋、家族の死を見てきたのだろうか。長年使い慣れた武器に止めを刺すこの瞬間、この少年の頭によぎるのはどういう光景であろうか。通称DDR(Disarmament, Demobilization & Reintegration:武装解除、動員解除、社会再統合)の現場である。

『武装解除』の扉部分には、このような本文が引用され、帯には、軍人に周囲を囲まれて泣きながら武器をハンマーで叩き割る少年の写真と共に、小さな文字で「いったい何人殺してきたのだろうか。武装解除の瞬間、ほとんどの少年は泣く。」という言葉が挿入されていた。これが紛争地域における秩序回復の現場である。紛争地域における治安維持活動というのは、生易しいものではない。
『武装解除』に書かれていたDDRの定義とフローも再度引用してみたい。

DDRというのは、武装解除を完全なものにするためのシーケンス(手順)で、今では国際的に内戦処理の一つの定番プログラムとなっている。
最初のD。武装解除とはその名が示すとおり、戦闘員に銃を捨てさせることである。しかし、銃を捨てさせたところで、また銃が与えられれば再動員されてしまうかもしれないから、二番目のD。動員解除とは、軍事組織の呪縛を解くこと。RUFなどの民兵組織は、軍事組織というより盗賊集団と言ったほうがより実態に近いと思うが、どんな小さな民兵グループでも、かならず隊長(コマンダー)がおり、その他の兵士たちを指揮するという指揮命令系統(Chain of Command)が存在する。動員解除とは、その呪縛をとくため、理想的にはコマンダーの解任(もしくは拘束)、そして軍事組織を解体させる政治決定。つまり、武装組織の首脳陣に自らの腹心のコマンダーを解任させ、そしてその部隊の解体を命令させる。武装組織自身に、底辺からその構造を壊させてゆくのだ。だから、RUFのように一つの武装勢力があったとして、動員解除は、通常、その下部組織のほうから段階的に行う。同じ武装勢力内の上層部に、下部組織そして腹心のコマンダーを解任する責任を最後まで取らせるというやり方が、最も政治的に有効だからだ。これでやっと一般の戦闘員は“解放”されるのだ。
しかし、それだけではまだ不安だから、最後のR。貧困が再動員される理由にならないように、復員事業を行い、一般の社会生活に再統合(Reintegrate)するというものだ。復員事業とは、建設業、機械工など非常にベーシックな職業訓練であるが、Rができるのはここまで。忘れてならないのは、復興中の社会は、経済がほとんどゼロにまで疲弊しており、手に職を付けても、“ひとり立ち”、つまり、それで飯が食えるか否かは誰も保証できないということだ。シエラレオネは、復興後も、世界最貧国であり続けるだろうし、失業率の改善は望めない(内戦以前から、この国の人口の九割以上は、零細、それも生存ぎりぎりの農業に従事していた)。この意味で、Reintegrateとは、ほかの一般の民衆が享受している“貧困”への再統合であると言えなくもないのだ。

何度読んでも凄まじい。実に危険なプロセスである。本書の「平和は闘いだ」というタイトルは比喩でも何でもなく、まさに命がけの闘いなのである。そして、このような現場を数多く体験してきた伊勢崎賢治が、護憲の人々はもっとセクシーになれ、正義と平和はどちらが大事なのか、護憲の極に振れたら良い――とアジるわけである。純粋な人などはコロッと影響されても全然おかしくないわけだが、さすがに爆笑問題は言論のプロだし、様々な分野の知識人とやり取りをしているから、はっきりと「結構ね、この人危険だと思う」と言えている。爆笑問題は極論ばかりを言っているように見えるが、さすがのバランス感覚だと感心した。
しかしながら、伊勢崎賢治が本当にただの危険分子かと問われると、それもちょっと違うだろう。この人は「正義」や「正しさ」や「建前」や「論理」だけで平和を築くことはできず、暴力のはびこる紛争地域の治安維持や秩序回復のためには逆説的に「武力」が必要だ――というパラドックスを最も深く理解している日本人の1人である。そして、そのような地域に憲法9条を持った日本人が非武装で行くことでこそ成し遂げたことがあることも知っている。だからこそ、様々な憲法9条の矛盾を理解しつつ、最終的な理想と日本の国益のために「護憲」をアジっているのである。ただ、そうかと思えば、田中が「戦争というのは、紛争も含めて、なんで起こるんですか」という問いに「わかりませんね」と答えちゃったりもする(もちろんその後に自分の考えは述べているわけだが)。本当に面白い人だなと思う。
最後に、今回の「平和構築学」と直接的な関係はないが、爆笑問題の太田が書いた本シリーズの序文が気に入ったので、一部引用したい。

 言葉とは煩わしいものである。思考するのに、言葉を使わなければならない時、とてももどかしい思いをする。
 言葉に比べ、心のなんと自由なことか。言葉にすることは心を区切る作業だ。一つの感情を言葉にした時、その言葉に収まりきれないどれほどの感情が失われるのだろう。デジタル時計が、一時一分一秒を表示した瞬間、一時一分二秒との間にある無限の時間を我々の認識が失うのと同じように、言葉と言葉の間に存在する無限の心を我々は失っているのではないかと思う。「楽しい」という一言で十分な感情などあるだろうか? 「悲しい」と一言で表現できる悲しみなどあるだろうか?
 ヘレン・ケラーが「ウォーター」と発した瞬間。一つの世界が広がったのと同時に、一つの世界を失ったのではないかと私は考えてしまう。

全く同じことを俺も考えてきたし、今も強く感じることがある。どれだけ頑張っても無意識下の思考を意識化・言語化した瞬間、多くのものが言葉から零れ落ち、そして(時として永遠に)喪われるのである。もちろんビジネスでは、多くの場合、言語化・論理化できることこそが重要である。しかしビジネスであっても、人間は言葉や論理だけでは動かない。場の空気であったり、行間に込められた雰囲気であったり、本人以外にとっては実に些細で理屈も通っていないと思える事柄が、決定的に重要だったりするのである。では、非ビジネスでは? 言うまでもない!
武装解除  -紛争屋が見た世界 (講談社現代新書)  憲法九条を世界遺産に (集英社新書)
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