苅谷剛彦『学力と階層』

学力と階層 (朝日文庫)

学力と階層 (朝日文庫)

『階層化日本と教育危機』などを書いた教育社会学者による、2003年以降に発表された論考を集めた論文集である。寄せ集めとはいえ、ここには一貫した問題意識があるのだが、それは「おわりに」と、内田樹による「解説」を読むのが良いかもしれない。

学力低下の論争が下火になり始め、私自身が、ある対談で「学力低下論争は終わった」と語ったあとに生じた、様々な教育の問題に、私なりに、再び実証派教育社会学者の立場から、見過ごされている問題点を指摘したり、新たなデータ分析の提示を通じて、どのような変化を考慮に入れなければならないかを示したりしてきた。本書をお読みいただいてわかるように、そこには、テストの得点だけで表される学力の階層差といった問題を超えて、学習意欲や学習に向けての構えの格差、さらにはそうした格差の拡大に影響を及ぼし得る教育資源の配分の問題といったものが含まれる。(おわりに)

 苅谷さんの知見のうちで、私がもっとも重要だと思うのは、前著*1では「インセンティブ・ディバイド」(意欲格差)という言葉で語られ、本書では「学習資本」という言葉で語られる、「学ぶことへの意欲」そのものが社会構築的な能力だというアイディアである。
 ひさしく「詰め込み教育」批判やゆとり教育を駆動していた基本的な教育観は、「誰でもがんばれば学習目標を達成できる」という「努力の平等」論であった。学習成果に差が出るのは、「がんばりが足りなかった」からであり、「がんばる」か「がんばらない」かは一次的に本人の自己決定に委ねられている。学習機会はすべての子どもの前に平等に開かれている。学力や体力には個人差があるが、「努力する能力」は万人に均等に分配されている。というのが、近代日本において、一度として懐疑されたことのなかった「努力主義」イデオロギーである。
 苅谷さんはこれがある種の歴史的状況のもとで生まれた、一個の憶断であり、それによって日本の教育が深く損なわれていることを指摘する。これは教育学史上に残る卓見だと私は思う。
 たしかに、「努力する能力」は万人に均等に分配されているわけではない。努力する能力は子どもたちの出身階層に深く影響される。階層上位の家庭の子どもたちは、「努力する」ことをの意味と効用を信じ、努力することによって現に社会的成功を収めた人々に取り囲まれている。階層下位の子どもたちは個人的努力と社会的成功の間には正確な相関がないから「努力するだけ無駄だ」と信じている人々を周囲に多く数える。この社会的条件の違いは、子どもたちの「努力することへの動機づけ」そのものに決定的な差をもたらすだろう。だが、その事実はこれまでほとんど主題化することがなかった。(解説)

内田樹のまとめがわかりやすいので、これ以上は語る必要もない。
オススメの本。

追記

出典を忘れてしまったが、以前、階層上位と階層下位では、家庭内で使われている単語数が全く異なる(2倍とか3倍の差)という調査結果を目にしたことがある。簡単に言うと、階層上位の子供は夫婦や親子の会話がバラエティに富み、その表現も多様であるが、階層下位の子供は「うぜーよ」「マジかよ」「ヤベーよ」「チョー」的な貧しい言葉が頻発する会話に囲まれているということである。加えて、テレビも、ニュースやドキュメンタリーを適度に見ながら家庭内の会話に繋げる家庭がある一方で、そんなものは親自身がわからないし興味もないから、とにかく馬鹿騒ぎするバラエティーばかりをリビングで映している家庭もある。したがって階層上位と階層下位では、明らかに子供が吸収する単語数が異なり、だから文章力や思考力にも差が出てくる……という内容だった。周囲の大人の振る舞いや家庭環境が子供に大きく影響を及ぼす調査結果として、本書と一緒に改めて覚えておきたい。

*1:『階層化日本と教育危機』