沢木耕太郎『一瞬の夏(下)』

一瞬の夏 (下) (新潮文庫)

一瞬の夏 (下) (新潮文庫)

一瞬の夏 (上) (新潮文庫) 一瞬の夏 (下) (新潮文庫) 敗れざる者たち (文春文庫)
『深夜特急』『敗れざる者たち』『テロルの決算』などで有名なノンフィクション作家によるスポーツノンフィクション……の下巻。上巻は↓です。

さて、カシアス内藤(内藤純一)はその天才的なセンスで東洋のベルトまで奪取したのだが、実は(その全盛期も含めて)ボクシングで最高の試合をしたことも完全燃焼もしたことがなかった。中途半端な練習、中途半端なコンディション、中途半端な相手……そして中途半端な試合。結局カシアス内藤はボクシングから4年半も離れる。しかしボクシングを忘れられず、復帰を決意する。その復帰戦までが上巻で描かれ、それ以降が下巻で描かれている。
カシアス内藤は復帰後のインタビューで、以下のように喋る。

……いつか、いつかと思ってきたんです。これはある人の言葉なんだけど、いつか、いつかと思っていると、きっといつかがやってくる。……俺にもようやくいつかがやってきたと思うんです。

これはカシアス内藤が、著者の「クレイになれなかった男」(『敗れざる者たち』所収)を基に語ったものだが、実はカシアス内藤は誤解している。この文章は、いつか、いつか……と今日を見ずに生き、燃え尽きたいのに燃え尽きることのできないカシアス内藤の悲哀を描いたものだったからだ。しかし、著者はカシアス内藤の誤解を否定することなく、彼の夢に自分も乗ることにする。カシアス内藤、著者、名伯楽エディ・タウンゼント、カメラマン内藤利朗の4人でチームを組み、最高の試合をするため、世界チャンピオンになるため、完全燃焼して「いつか」を本当に引き寄せるため、そして以前負けた柳済斗に「オトシマエをつける」ために、動き出すのである。
果たして柳済斗にオトシマエをつけられたかどうか……それは本書を読まなくてもインターネットで検索すれば一発で出てくる事実なのだが、まあ知らない人は本書で楽しんでほしい。カシアス内藤は柳済斗に既に四度も負けており、興行的な価値はゼロに近い。そのような中で、多少の無理を通してでもカシアス内藤と柳済斗の対戦を実現させるために、著者は飛び回る。興行のヤクザな面白さと難しさがリアルに伝わってくる。
それにしても難しいのは、夢と生活の両立である。初めて本気でトレーニングをして、1年以上も鍛えに鍛えたカシアス内藤の肉体は、極度の生活苦から夜の仕事に舞い戻ることで、わずか1ヶ月で崩れてしまう。柳済斗との対戦、タイトル戦が近づけば近づくほど、様々な苦しみが襲ってくる。読んでいて「手に汗握る」とはこのことであろう。当時の熱をページをめくる指に感じ取れる大推薦本。

余談1

本書でも登場するエディ・タウンゼントは、藤猛・海老原博幸・柴田国明・ガッツ石松・友利正・井岡弘樹という六人の世界チャンピオンと赤井英和・カシアス内藤らを育てた名トレーナーだが、彼の指導法や理念を引き継いだジムは現在、私の地元である大阪府高槻市にあるらしい(エディ・タウンゼントジム)。ぜんぜん知らなかったなあ。

余談2

沢木耕太郎といえば俺の中では断然『深夜特急』であった。浪人時代に貪るように読み、異文化に対する興味が否応なしに上がった。まあ俺の場合、海外に行くのではなく、旅行記や異文化論の本が好きになったり、異文化コミュニケーションのゼミに入ったり、ウルルンやNHKのドキュメンタリーが今まで以上に好きになったりするという、いささか変化球なハマり方なんだが……。まあそれでも多様性の推進は今「ダイバーシティ」などと言って経営のホットトピックだし、どんな形にせよ、興味がないよりはあった方が良い。