長谷敏司『あなたのための物語』

あなたのための物語 (ハヤカワ文庫JA)

あなたのための物語 (ハヤカワ文庫JA)

アメリカの片田舎で育ったサマンサ・ウォーカーという女性は、人工神経制御言語・ITPを開発したことで、名声的にも金銭的にも世界有数の成功を手にする。しかし彼女は研究者を引退することなく、ITPの商品化に向けた研究の一環としてITPテキストで記述された仮想人格「wanna be(なりたい)」に小説の執筆をさせていた。しかしそんな矢先、何とサマンサは余命が半年であることが判明。彼女は残された時間を、仕事に費やすことにする……というプロローグ。
ありふれたプロローグだが、その後に語られる物語は決してありきたりではない。生と死について、孤独について、恐怖について、生前に残された業績について、家族について……エッセンシャルな物語が読者に突き付けられる。そして、あたたかい赦しや癒し、救いはない。いや、正確には、わずかな人々は自分なりのやり方でサマンサを赦し、癒し、救おうとするのだが、彼女は決然とそれを拒絶するのである。それを愚かとも言うし、誇り高いと見ることもできる。両義的で、タフな物語だ。しかし胸を打つ。

余談

私は、サマンサの旧友にして共同創業者であるデニスというキャラクターが好きだ。サマンサほどの研究者としての才能はなく、数年前に研究者を引退してプライベートを充実させたいと言いながら管理・経営に回っているが、実際には仕事に汲々とし、株価を下げ、余裕のない顔つきをしている。そして真っ赤な顔で死を前にしたサマンサを罵倒する。それでいて本当はサマンサのことが心配でたまらないのだ。サマンサに比べたら、彼の器は「ほどほど」なのだろう。しかし彼は「善い人」だ。