カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』

キャシーという名の女性が、自分の少女時代を回想するという建て付けの小説。

ブッカー賞の最終候補にもなったカズオ・イシグロの代表作なので、読んだことがある人は多いかもしれない。わたしは前情報ゼロで読み進めた。

キャシーはヘールシャムという寄宿学校のようなところで生まれ育っている。孤児院のようなものかも。でもはっきりとはわからない。親はおらず、寮のようなところで多くの子供が一緒に生活している。舞台がどこか、時代がいつかもわからない。カセットテープが出てくることから、1970年代〜1980年代あたりのイギリス(カズオ・イシグロがイギリス人なので)の片田舎なのかなと漠然と想像したりした。しかしキャシーの語りからは「交換会」「介護人」「保護官」といった独特のワードが出てくる。それらに付随する独特の慣習も。もしかしたら、新興宗教が作った閉鎖的なコミュニティなのかもしれない。アメリカなんかにも幾つかあるって言うね。

その想像が当たっているか?

けっこう知られているようだが、ネタばらしはやめておこう。一応補足しておくと、中盤に差し掛かったあたりで情報量がぐんと増えて、おぼろげながらキャシーたちの置かれた状況が何となくわかってくる。

何とも言えない。

読みながら幾つか感じたことがある。まず、これは原文だけでなく翻訳者の功績でもあると思うが、平易でとても読みやすく、しかも静かで美しい、抑制された文体だということ。わたしが個人的にとても好きな文体だ。

もうひとつ、過去のことを語っているからというのもあるが、本人の体験談なのにも関わらず、ちょいちょい、はっきりとは覚えてないんですが……とか、いま思うと……とか、確か……といった不明瞭な語りが出てくる。ミステリでたまに出てくる「信頼できない語り手」が自分自身って奴なのかな、比較的新しい小説技法上の試みなのかも、とか思いながら引き続き読み進める。

クライマックス。厳密なミステリというわけではないものの謎の多い小説なので、あまり具体的な話はしないが、それでもクライマックスと呼べるシーンがある。わたしは読みながら、物凄く感情を揺さぶられた。

揺さぶられる……他にどう言えば良いだろう?

ずいぶん手に取るのが遅くなってしまった。これは多くの人間が読むべき小説だ。

補足

巻末では柴田元幸が解説を加えているが、カズオ・イシグロは「記憶は捏造する」「運命は不可避である」といった中心的テーマで繰り返し創作しているそうだ。本作に捏造というべきものがあったかどうかはよくわからなかったが、上で書いた「信頼できない語り手」という感想も、あながち外しているわけではなさそうだ。