澤村伊智『予言の島』

どこで情報を得たのか全く記憶にないが、いつの間にか購入してKindleに入れていたミステリ作品。

いわゆるオカルト・霊能力・スピリチュアルを題材としたテレビ番組が90年代とかは本当に多かったし、雑誌なんかもたくさんあったと聞く。だからこそというか何というか、織田無道・宜保愛子・細木数子・美輪明宏などなどの霊能力的なアレを持った人たちも本当にたくさん活動していた。

本作は、宜保愛子を思わせる「宇津木幽子」という霊能力者の予言に則り、人が6人死ぬと予言された日時と場所(離島)を、主人公たちは色々あって(と言っても半分以上は興味本位だが)訪れることになる――というプロローグである。

少し脱線するが、わたしは死んだ人間の意識が、死んだ瞬間に電気のスイッチをオフにするかの如く消え失せてしまうという考えは、味気ないと思う。寂しいと思う。思春期の頃はそんなこと全く考えていなかった。意識は脳に宿っているのだから、脳の活動が停止すれば意識も停止する。それが真っ当な考えだと思っていたし、現代人はリアリストであるべきだと思っていた。しかしわたしが何十年もかけて見聞きし考えてきたこと、同様にわたしの父親や母親、あるいは祖父母、あるいは隣に住んでいる誰か……それら全ての営みが電気を消すように消えるというのは、耐え難く寂しい。悲しいとか辛いとかではない。ただ寂しいのだ。だからわたしは、たとえ肉体が消えても集合意識がどこかに存在するという「アカシックレコード」みたいな存在があって良いと思うし、あって欲しいと思っている。

ただ一方で、いわゆる霊能力者などが言う「よくある話」には懐疑的である。

  • 霊は都合よく人間に影響を及ぼせるのに、人間は余程の霊能力がないと霊を見たり声を聞いたり出来ないというのは、何となく釈然としない。
  • そもそも死んだ人間が霊になるとして、動物の霊はいないのか。
  • 何らかの思いや未練を抱えて死んだ人間が霊になるとして、戦争中など時代・場所によっては物凄い数の人間が何らかの思いや未練を抱えて死んだはずであり、東南アジアの日本兵、ホロコーストで殺されたユダヤ人、ポルポトに虐殺されたカンボジアの人々、スターリンに殺されたロシアの人々、原爆でなくなった広島と長崎の人々、さらにはペストやスペイン風邪でなくなった数億人の人々の数は、天文学的な数に上る。それなのに宜保愛子や美輪明宏がカンボジアやロシアやヨーロッパや広島や長崎で「霊に溺れた」という話は一度も聞いたことがない。

……と、馬鹿らしくて書く気も起こらないが、いわゆるオカルト・霊能力・スピリチュアルブームは矛盾点が多すぎる。

けど、こうしたオカルトに「囚われてしまう」人たちは数多くいて、本作にも、囚われてしまった人々がたくさん登場する。

なんか考えさせられるなーと。