リンダ・シーガー『サブテキストで書く脚本術』

この数年すごく思うのは、翻訳モノのビジネス書やノウハウ書が、凄く冗長でわかりづらく、イライラするなということだ。

これは翻訳の問題ではない。根本的、本質的な説明スタイルの傾向の話だと思う。

プレゼンなどではよく、日本人は下手で、欧米人は上手いと聞く。

またアメリカなどではパラグラフ・ライティングの授業があり、子供の頃からしっかりと文章で主張する訓練ができているから、日本人に比べて欧米人は文章での議論も上手だと聞く。

わたしはその意見に大筋では賛同するのだが、最近どうも、本書を初めとして、やたらイライラさせられる海外の著者の本に当たる可能性が増えている。

例えば本書だが、普通に考えると、本書でまず知りたいのは「サブテキストとは何か?」であり、「サブテキストで書く脚本とは一体いかなるものか?」であり、「サブテキストで書くと脚本は一体どのようなメリットがあるか?」であろう。わたしは脚本を書くこと自体に興味はないが、文章をより自分の理想に近づけることに関心はあるため、そのために本書を購入した。

しかし1章の最初のサブタイトル「サブテキストとは何か」からストレスしか感じない。冒頭を引用しよう……と思ったが、価値がないと思う文章を引用するのも辛いので2行ぐらいで止めてしまった。要は、「サブテキストとは何か」というサブタイトルなのに、サブテキストの定義が2ページ読んでも3ページ読んでも出てこない。ぐだぐだ、ぐちゃぐちゃと比喩なのか何なのかよくわからないものが延々と語られる。この「比喩なのか何なのかよくわからないもの」ってやつが曲者で、海外のビジネス書では「名著」と呼ばれているものでも本当に信じられないほど大量に事例が差し込まれる。わたしには唐突・無理やりとしか思えないのだが、これは自分の主張をサポートする比喩的な何か・あるいはエビデンスとして差し込まれているのだろう。事例の章が既にあるにも関わらず、それ以外の章にも。

本書はなおタチが悪く、事例だと、また事例の範囲がここからここまでだとわかるようなら、まだ水増しだと思いながらすっとばせるのだが、本書は「比喩なのか何なのかよくわからないもの」を延々と読まされる羽目になる。

要するに、サブテキストとはp.14に書かれている「はっきりと言葉にされてはいないが、底流にある、あらゆる意味のこと」のことらしいのだが、文章の切れ味がとことん悪い上、こんなの最初のページの1行目に書くことだろう。ある登場人物が「嬉しい」と言ったからと言って本当に嬉しいと思っているとは限らない、という至極当たり前かつ重要なことがサブテキストだ。悲しそうに顔を歪めて嬉しいと言ったときにはサブテキストが走り、宝くじで1億円当ててニヤリとしながら「今日もいつもと何も変わり映えしない下らん1日だな」とうそぶいたときにもサブテキストが走る。それだけのことだ。

そして本書のタイトルは「サブテキストで書く脚本術」なのだが、この書かれざるものをどう書くかということが、これまた本を読んでもよくわからない。

途中からおもくそテキトーに読み飛ばした。

結論。サブテキストは確かに重要だ。しかし本書でそれがどこまで学べるか、わたしにはよくわからない。