三木那由多『会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション』

書名はナンジャコレという感じだが、帯が秀逸なので買ってみた。

ラムちゃんとあたるは「好きだ」と言わないことで互いに何を伝えているのか?

分析哲学の研究者が「会話」というものを掘り下げた内容の本だが、ポイントはふたつある。

ひとつは、この手の解説書や研究書では、研究者がそれっぽく作ったオリジナルの会話例を使うことが多いが、それが偏って見えることが多いとのことで、映画・演劇・漫画・小説などで行われた会話例を用いて掘り下げている。なるほど、我々現代人にとって、荒唐無稽でSFじみた世界観で行われる会話は、もはや現実以上にリアルだ。

もうひとつは、会話で行われる「コミュニケーション」の定義を一般的なものとは違うものとすることで、これまでの定義では見えていない会話の実態の炙り出しに成功していることだ。

これはもう少し補足説明が必要だろう。

まず「会話によるコミュニケーション」の定義は、著者は一般的に以下のようなものだと言う。

話し手が何か頭のなかに考えを持っていて、それを言葉にして伝達し、聞き手はその言葉を受け取って、話し手が考えていたことをその言葉から読み取る、というような見方が一般的ではないかと思います。話し手が発言というバケツのなかに自分の考えを放り込んで聞き手に渡して、聞き手はそのバケツのなかから話しての考えを取り出す、みたいなコミュニケーション観ですね。

一方、著者はこうしたコミュニケーション観ではどうにも説明できない例が存在すると指摘し、以下のような定義をベースに論を展開する。

コミュニケーションは発言を通じて話し手と聞き手のあいだで約束事を構築していくような営みで、マニピュレーションは発言を通じて話し手が聞き手の心理や行動を操ろうとする営みです。

構造的な説明になるが、ここでのポイントもふたつで、まずひとつはコミュニケーションのキーワードは「約束事」であるという点だ。「話し手と聞き手の共通理解」という意味に近いが、明示的・暗黙的な了解事項のいずれであっても、あくまで口に出すことで発生した文脈を「約束事」と言っている。そしてもうひとつは、会話によって積み上げられる相互理解の文脈の中には、コミュニケーションだけでなくマニピュレーションも存在するという点だ。このマニピュレーションは必ずしも悪意を持って相手を操ることのみを指すわけではない。意図的であるか、また強制的であるか否かに関わらず、会話の聞き手の言動に何か誘導的な変化が発生すれば、それはマニピュレーションである。そして会話におけるコミュニケーションとマニピュレーションはなかなか微妙なところで、コミュニケーション(約束事)とマニピュレーション(誘導)の双方が発生する会話もあれば、コミュニケーションだけ、およびマニピュレーションだけが発生する会話もある。

さて、本書では上記の定義というかコミュニケーション観でなければ上手く分析しづらい会話について、映画・演劇・漫画・小説の実例とともに紹介されているのだが、これがなかなか面白い。詳細は本書に譲るが、例えば第二章では、「わかり切っている内容をあえてコミュニケートする状況」を取り上げ、第三章では「間違っているとわかっている内容をあえてコミュニケートする状況」を取り上げ、さらに第四章では「伝わらないとわかっているからこそ発言をするという状況」を取り上げている。これらはいずれも、一般的な「気持・意見などを、言葉などを通じて相手に伝えること」というコミュニケーション観(バケツリレー観)では上手く捉えられないもので、著者の「約束事」という概念にフォーカスしないと解像度が上がらない。

第二章の「わかり切っている内容」の作品例で特に面白かったのが「うる星やつら」だ。主人公のあたるがラムに「好きだ」と言わないことで責任を回避している。そしてラストエピソードでは、何と「好きだ」と言わなければ地球が滅亡する状況に陥るのだが、それでもなお、あたるは「好きだ」と言わないまま色々あってハッピーエンドになるのである。そして本書でも引用されている通り、最後の最後、こんなやり取りがかわされる。

ラム 一生かけていわせてみせるっちゃ。
あたる いまわの際にいってやる。

最高やん!

冒頭で引用した「ラムちゃんとあたるは『好きだ』と言わないことで互いに何を伝えているのか?」の伏線回収にもなるが、これって「死ぬときに好きだと言う」ってことで、これもう「好きだ」と言っているようなものだし、何ならプロポーズに対する応諾である。つまり、お互いがお互いを好きだという気持ちは十分に伝わっているのである。というか、このラストエピソードに至る前から、お互いがお互いのことを好きなことはフツーに考えればわかるはずである。一般的な「気持・意見などを、言葉などを通じて相手に伝えること」というコミュニケーション観(バケツリレー観)からすると、このやり取り自体が不要なのである。では、なぜラムがあたるに「好きだ」と言わせたいのかというと、これは著者の「約束事」という概念でなければ確かに説明ができない。口に出すことで、「お互いの明示的な合意事項」になる。そしてあたるは、わたしの理解では、それが嫌だから(今さら「好きだ」という言葉に何の意味があるのかという思いや、今の関係性を大切にしたいという思い)意地でも「好きだ」と言わないのである。

わたしの理解を書けば、この「両者が互いに好き合っており、そのことを互いに理解していながらも、言葉にしないことで関係性を曖昧にして、次のステップを先延ばしにする」というのは、昭和ラブコメの真骨頂である。特に少年サンデー、そして特に高橋留美子はその昭和ラブコメの免許皆伝レベルと言って良く、『うる星やつら』以降も、『めぞん一刻』『らんま1/2』とこの構図でサイコーすぎるラブコメを描いている(実は高橋留美子は、昭和ラブコメ以外にもうひとつめちゃくちゃ際立った特徴があるのだが、それはまた別の機会に語ろう)。

第三章と第四章もしっかり書こうと思ったのだが、少し熱が入り過ぎたので無理やり終わらせにかかろう。第二章から第四章は「約束事」という側面にフォーカスしたコミュニケーションの事例を解説し、第五章ではコミュニケーションに失敗した事例、第六章と第七章ではマニピュレーションにフォーカスした解説がある。

最後に、本書は読みやすいが非常に興味深いもので、できれば他にも読んでみたい。以下は著者のより専門的な本のようなので、こちらも読んでみようかな。