
- 作者:相澤いくえ
- 発売日: 2021/01/29
- メディア: Kindle版
その美大のとある学年には、男子が3人しかいない。
一人(本吉)は、「天才」と騒がれるほどの才能を持ち、学生ながら度々個展を開くほど若くして評価もされているが、東日本大震災の津波で家族や友人を喪い、そのトラウマから立ち直れないでいる青年。
一人(千葉)は、考えることが苦手で「芸術とは」「創作とは」みたいなことは全然ムリで、ただ作りたいものを作っていたいという純粋さを持つが、技術的にはまだまだ拙く、進路・就職といった現実が迫ってくることに不安を覚える青年。
一人(藤本)は、他の男子生徒2人のような才能や純粋さがないことを気にして、色々な他人の成功や達成に嫉妬を感じ、そうした自身の矮小さもまた自分を苦しめている青年。彼にはコツコツと頑張る長所はあるのだが、その強みには自分には気づけていない。
本作はこの5巻で完結を迎えるのだが、何とも独特の読後感である。美大や芸大を舞台とした作品は幾つかあるが、『ハチミツとクローバー』とも『ブルーピリオド』とも『アオイホノオ』とも『おひっこし』とも『かくかくしかじか』とも『イエスタデイをうたって』とも『夏の前日』とも違う。
「デタッチメント」というと古いかな。彼らは全員、美大の中で本来はもっと他人と交流すべきなのだろう。物語としても、彼らの人生としても。その方が物語として動きが出るし、芸術家としても刺激を受けるはずだ。でも彼らはそうしない。自分と向き合って、自分の世界に深く潜っていく。もっと言うと、3人は頻繁に一緒に行動し、長く一緒の時を過ごすが、お互いの作品を批評したり、アドバイスしたりもしない。自分の作品は自分で生み出すしかないということなのだろう。
こうした求道者的な姿勢は、現代ではほぼ喪われたものである。
しかしわたしは、こうした人間を心から尊敬するし、愛する。わたしもそんな一面があるし、そうありたいという気持ちがあるからだろう。
子供じみている?
そうかもね。
わたしは永遠の子供で、永遠のモラトリアムだ。40歳を過ぎても、20歳の頃とやっていることは変わっていない。本を読み、漫画を読み、動画(20歳の頃はテレビだったが)を見て、ブログを書く。仕事をする。仕事で相手や社会に爪痕を残したいという思いは変わっていないが、社会人男性が一般に追い求める人生の「達成」に本質的な興味を抱けないことも変わっていない。結婚、家族、車、持ち家、出世、給料……いずれも関心を持てていない。なお財産は普通保険だけで、株も仮想通貨も、未だに保険にすら加入していない。
関心を持てることのキャパが少ないのかもしれない。不器用なのかもしれない。
いずれにせよ、不器用にアイデンティティを模索する人々の姿に心を打たれる。わたしの深いところで作品と共振し、読みながら静かに涙が流れる。そんな作品。
この作品を読んだ人と心ゆくまで語り合いたいなあ。