三浦建太郎『ベルセルク』41巻

大方の予想通り……と書いては失礼だが、そう書くしかないだろう。大方の予想通り、『ベルセルク』を完結させることなく三浦建太郎が亡くなってしまった。この何年か……いや10年以上か、刊行ペースが非常に落ちてしまっていた。圧倒的な絵のレベルだが、レベルというよりはハードルだろう。三浦建太郎は絵のハードルを自分で上げすぎてしまったのだと思う。それで作画ペースが落ち、作画するのには更にプレッシャーが掛かり、そのプレッシャーを軽減……と言うかぶっちゃけ気分転換に、別の作品を描くというのが近年の展開だった。

衝撃の一報を聞き、わたしはあまりに悲しくて、その日はまともに仕事をしなかった。

それぐらい悲しかったが、同時に悔しかった。

ああ、来たかと。ついに来たかと。でも早すぎないかと。

54歳か。今回の急性大動脈解離がなければ、あと20年は現役だっただろうから、ギリギリ完結させることが出来たのかもしれない。そう考えると、ファンとしても悲しさと同時に悔しさが募る。

わたしのベルセルクとの出会いは、高校生の頃だった。自宅の近所の本屋で、わたしは週刊少年マガジンと月刊アフタヌーンを少ない小遣いから買っていた。ジャンプとサンデーは高校の友人やクラスメートが大抵買っていたので、マガジンを提供する代わりにジャンプやサンデーを借り受け、いわゆる回し読みをしていた。そしてヤンジャン、ヤンマガ、ヤンサン、ビッグコミック、スピリッツ、スペリオール、オリジナルは毎号欠かさず立ち読みをしていた。月マガなどは読んでいなかったが、増刊号も含めてたまに読んでたな。その中で、ヤンアニ(ヤングアニマル)は、『ふたりエッチ』という男子高校生の知的好奇心ならぬ痴的好奇心を満たす作品の連載開始と共に、わたしの豊富な立ち読みレパートリーに追加されたのだった。

ヤンアニについては、当初こそ『ふたりエッチ』目当てで手に取っていたが、気づいたら完全に『ベルセルク』目当てに変わっていた。わたしがヤンアニの立ち読みを始めたのは、おそらく「蝕」の直後ぐらいのエピソードだったと思う。経緯はよくわからんが主人公ガッツの禍々しいオーラや、作者の驚異的な書き込みに惹かれて、だんだん『ベルセルク』の方が楽しみになっていた。そして事前情報ゼロで『ベルセルク』の単行本に手を出した。出してしまったのだ。

1〜3巻あたりは、まだ未熟な絵柄ながらとんでもない感情がほとばしる描写に衝撃を受けた。4巻あたりから始まるガッツの少年時代と青春時代には大きな刺激と共感を受けた。思春期ということもあってよくある裏表のないヒーローやハッピーエンドには飽き飽きしていたから、屈託や鬱憤やコンプレックスを山盛りで抱え、それでもそれでも強い野心と共に戦場を駆け巡るガッツの描写には、これまでとは違う野性味のある主人公としてわたしには眩しく映った。そして蝕。事前情報なしで蝕の描写を読めたのは、読者体験として至上の幸福だったのだと思う。わたし自身、ベルセルクの作品世界にとことん没入して、鷹の団に感情移入どころか「自分の魂は深いところで作品世界と共振してわたしは鷹の団に所属しているのだ」ぐらいに本気で思っていた。だから蝕には、それこそ立ち上がれないほどのショックと絶望を受けたし、それこそ何百回も読んだ。わたしの腕は、何度ジュドーを支えようとしただろう。何度使徒に引き千切られてキャスカを助けようとしただろう。さすがに千回は読んでいないだろうが、死ぬまでには千回以上読むかもしれない。それぐらいの神エピソードだとわたしは思う。

以降、毎回雑誌に載っているかを楽しみにしながら、単行本を何度も何度も何度も何度も読んできた。

ある時から、ガッツはエヴァンゲリオンの碇シンジに似ているとわたしは思うようになった。理不尽な世界に翻弄され、何度も何度も倒れ、それでも立ち上がる。欠点の多い人間として何度も何度も失敗し、大切な人から憎まれたり遠ざけられたりして、傷つき、それでもやり直そうとする。そんな姿を見た何人かの大切な仲間が支えてくれるが、大切な仲間を喪う目に何度も遭い、それでもなお前を向く。ガッツは作中で”もがき 挑み 足掻く者”と言われた。碇シンジはそこまでプロアクティブな人間ではないが、それでも必要に迫られ、もがき 挑み 足掻いてきた。

「エヴァ」はくり返しの物語です。
主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。
わずかでも前に進もうとする、意思の話です。
曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。

これはヱヴァンゲリヲン新劇場版の製作に際して庵野秀明が発した「所信表明」だが、これはまさにベルセルクのガッツではないかと思う。

「努力できるのはあなたの能力が恵まれているだけなんです」とか、「あなたの成功や幸福はただの運なんです」とか、「努力や挑戦の意志自体があなたの恵まれた環境に起因するんです」といった、他人の努力や成功を妬んで貶める言説が蔓延っている令和しぐさにおいて、今、ガッツや碇シンジはどのように受け止められるのだろう?

わたしはこうした令和しぐさを全身全霊で否定する。わたしは”足掻く”主人公が好きだ。"前に進もうとする"主人公が好きなのだ。

それを否定する意識高い系の人がいても、わたしは一向に構わない。わたしはわたしの人生の主人公でありたいだけである。脇役でありたい人をどうこうしたいとは思わない。

ベルセルクの「今後」について

最後に、ベルセルクの今後は「未定」とされている。

どんな作品よりも完結が望まれる一方で、三浦建太郎という圧倒的な才能なしに、それが可能なのか? 絵柄的にも、ストーリー的にも、難しいだろうという話はある。三浦建太郎の遺書的なものも残っていないので、未完の作品として終わらせるべきかについて三浦建太郎の確固たる発言はないようだ。

しかしわたしの主張は明確だ。意思を受け継ぎ、残った人間が完結まで書き紡ぐべきだと思う。

三浦建太郎はグイン・サーガシリーズの大ファンだった。グイン・サーガは、栗本薫という圧倒的才能により、正伝が130巻、外伝が22巻(上下巻1編を含むため23冊)という圧倒的ペースで刊行されたが、それでも未完だった。そして今、「『グイン・サーガ』を様々な人に語り継いでもらいたい」という栗本薫の遺志を受け、グイン・サーガは今も刊行が続いている。

グイン・サーガの作品世界にとことん惚れた三浦建太郎なら、他の人が語り継いで、ガッツとキャスカが救われてほしいと思うとわたしは考えている。

いや、本当のところは、他ならぬわたし自身がそう思うのだ。

数十年に及んだ旅路の果てが「空白」ではガッツとキャスカが浮かばれない。わたしは彼らに救われてほしい。