『舟を編む』

舟を編む

舟を編む

馬締光也(松田龍平)はコミュ障で営業部門のお荷物だったが、大学院で言語学を専攻していたこと、また言葉についてのこだわりの強さを買われたことから、辞書編集部に異動。「大渡海」という中型国語辞典(広辞苑や大辞林が中型)の新規作成に携わることになる。辞書というのは10年以上(大辞林などは28年)もかけて作成するもので、長く、非常に根気の要る仕事である。しかし名前のとおりマジメだった主人公は辞書づくりに魅せられ、これを一生の仕事として取り組むようになる……と、まあこんな感じのプロローグ。実質的に2部構成で、第1部は「大渡海」のプロジェクトが作成された頃で、第2部は第1部の12年後、「大渡海」が完成する最後の数年間が描かれる。

友人が「『舟を編む』の宮崎あおいが可愛い」と連呼していたので(宮崎あおいは恋人・妻役の準主役である)、もっと恋愛要素が強いのかと思ったが、いざ視聴するとそうでもない。とにかく仕事に打ち込む主人公が描かれる。わたしは、信念を持った主人公がこつこつと偉業を成し遂げるタイプの話は大好物だ。勧善懲悪めいた物語も痛快で悪くはないが、登場人物がそれぞれの責任を果たし、壁を乗り越え、偉業を成し遂げる。あるいは偉業でないが小さな一歩を踏みしめる。そんな物語がわたしは好きだ。

本作は、主人公以外にも、地味ながら魅力的な登場人物が多数登場する。例えば、西岡先輩(オダギリジョー)は典型的なチャラ男なのだが、単にチャラいわけではなく男女問わず豊富な人的ネットワークを持ち、外交力を持っている。そして彼はその外交力でもって、辞書編纂を推進する。それはコミュ障の主人公ができないことであり、二人は強みを互いに補い合うようになる。また、社会的意義は高いものの収益の見込めない辞書編集部の体制縮小が求められた際も、西岡先輩は主人公を想って自ら異動を願い出るのである。主人公は、西岡先輩が異動してしまうことに激しく動揺・狼狽するが、最後は自身が壁を破り、苦手ながらも自分で交渉事を進めるようになる。そして西岡は異動先の宣伝広告部で自身のキャラクターを活かして働き、外側から「大渡海」を支援するのである。

これから少々余談めいた話になるが、10代や20代初めの頃のわたしは、綺麗な終わり方をする作品が嫌いだった。「ハッピーエンドは糞だ」とまで思っていた。しかし40歳を迎えた今、作品に対する考え方は大きく変化している。歳を重ねて妥協したわけではなく、もちろん安易なハッピーエンドは今も嫌いである。しかし今はこう思うようになったのだ。「物語が終わった後も彼らの人生、彼らの世界は続いていく」と。わたしは物語の終わりには「未来」や「希望」や「覚悟」のようなものが示されてほしい。微かでも輝ける光が見たい。例えば本作は、映画としては辞書を作って終わりである。しかし主人公は、人生を賭けるとまで言った「大渡海」を作り切って、確実に一皮むけた。そして小さいが確固たる偉業を胸に、明日からも人生を歩むことになるだろう。「ことば」に終わりはなく、日々新しい言葉が生まれ、死んでいく。「大渡海」の改訂版の作成に主人公はこれから取り組むのだ。これはハッピーエンドではない。映画の外にある物語の示唆であり、終わらない物語の提示だ。

あ、もちろん「俺達の戦いはこれからだ」的な終わりはわたしも嫌だからね。